行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
「身体」表現なくして美術史ってありえない
anun


株価大暴落
金融危機
世界恐慌
恐ろしい活字が新聞紙面を踊っている。

1万8千円あった平均株価が、あっという間に8千円を割り込んだ。
この1万円の落差こそ、私達を取り巻いている「大きな囲い」の影のようだ。
健全な経営をしていて利益もきちんとあげている有望な会社の株が、
突然半値になってしまう。ほんとうに恐ろしい。
窓を開ければ、実際は秋晴れの空が広がっているのに、
「大きな囲い」の中の私達の暮らしは暴風雨の下だ。
映画『自転車泥棒』のシーンが頭の中をよぎる。

秋晴れだけど見えない黒い雲が渦巻き、雷光が走っている…そんなある日、横浜トリエンナーレに立ち寄ってみた。
暴風雨の中の、小さな庇の下に集められた作品たちは、あるものは「囲い」に抗議し、唾をはきかけ、あるものは我が身の小ささを嘆き念仏を唱え、また他のあるものはこのように成り果てた世界をあざ笑っていた。共感できるものもあり、そうでないものもあった。ただ感動を覚えるようなものはなかった。

メイン会場にあったマーク・レッキー『白い巨大な蛮族の行進』というビデオ作品が気に入り、珍しく2回も見てしまったが、YouTubeで見ても十分なような気もした。まあ、YouTubeも膨大な数のコンテンツがあり簡単には面白いものに出会わないだろうから、横浜で出会うようにしてくれた意義は感じた。
どしゃぶり雨のずっと東、六本木ではメサジェ展をやっている。
どうせならメサジェも横浜に呼んで一緒に展示してもらいたかった。
「世界恐慌」の声さえあがっているのに、六本木の高いビルで高い入場料を払うほど肝は座っていない。

横浜に行って数日が経った。
雷音はすさまじく鳴り止む気配無し。
公的資金投入に急上昇したものの、またすぐに暴落。
朝日新聞に、この秋開催されているアジアのビエンナーレ、トリエンナーレ5カ所についての記事が載った。上海、光州、釜山、シンガポール、そして横浜だ。
【乱反射するアートーアジアの国際展から】というタイトル。

掲載二日目「2、身体」と題された記事の一節、
〈整形、ゲノムの解読に食品偽装やメラミン。一方で進む電脳化やスポーツへの熱狂。美術に限らず、現代の表現において「身体」は主要テーマであり続けている…〉(大西若人記者)
身体を巡る表現が国際展各所で見られたそうだ。横浜でもパフォーマンスが多く取り入れられた。
なるほど、言われてみれば巷にも「身体」を全面に出したものが少なくない。エクササイズビデオ、矯正下着、筋肉系エンターティメントなども挙げられる。

”最先端”と呼ばれる国際展で最もベーシックな「身体」なのか。
モダニズムやポストモダンはいざ知らず、美術史のほとんどは「身体」表現が関わってきたと言える。言い換えると「身体」表現なくして美術史ってありえなかった。
このことは意外にも盲点だったような気がする。
美術に関しては「身体」が再発見、復権されたといったほうが正しいと思う。
「身体」…この考えで美術史、文化全般をもう一度見直してみたい気がしてきた。

今も昔もそうだが、美大の彫刻科カリキュラムにおいて「身体」表現は基本とされている。
「身体」表現は「身体」を観察することから始まる。
「身体」観察から、「人体」彫像で完結する人も無論いる。
「身体」観察から、「人間」考、「人類」考に進む人もいる。
「身体」観察から、「存在」へと向かう人もいる。
ブランクージ、ジャコメッティも、みんなこのカリキュラムから始まった。

この一、二週間の間に、「実体経済」という語が頻繁に出てきた。
マネー経済、市場経済の反意語と勝手に思い込んでいる。
連呼され始めた推移から想像するに、勝手もそう遠くはいないだろう。
「実体」から遊離した経済ー幻影の経済があり、「身体」から遊離した文化ー幻影の文化があったということなのかな?…もう少し考えてみよう。


doguu

(紀元前2〜3千年 ギリシア彫像)


| 風景の行方 | 15:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
呼吸音はよく聞こえてくる
tokorozawa

暗い車庫内に幾本かの線路が引き込まれている写真。
その黒い写真を背景に「引込線」という白い文字が大きく刷られている。
駅に貼られていたなかなかイイ感じのポスターだ。
「所沢ビエンナーレ・プレ美術展」を知らせるもので、出品作家には知己の名前もでている。ポスターにまさしく引き込まれ、立ち寄ってみた。

展示会場となった工場の建物は、写真のような大きな空間だ。ただ線路はなかった。
建物はかなり古く、床のコンクリートは平坦ではあるが、少し気を使い歩く。
中はかなり蒸し暑い。
周囲の壁面も一様ではなく場所により違った造作だ。
採光は入り口のあたりがかなり明るく、奥にいくにしたがって暗い。
内部にあった物入れやパレットを隅に移動し並べたり積み上げたりして、会場にしつらえたものだ。

こういう会場での展示、作品が見やすいかと言えば、やはり見にくい。
作品以外のものに目が行きがちだ。
ただ不思議な事に作家たちの呼吸音はよく聞こえてくる。
”ライブ感”とでも言ったらいいのだろうか、歌手が舞台ではなく、目の前で歌っているといった感じだ。作家、作品が近く感じる。

だいぶ前から、いわゆる美術館展示室、ギャラリーは基本的にホワイトキューブになった。作品以外には神経が向かないようにしつらえてあるし、照明の使い方などで作品の表情が変わってしまったりするほどデリケートで、展示に特化してある。
作家にとっては申し分ないのだが、独尊的である分、「隔離されている」「孤絶している」といった感情の矛盾に陥ったりもする。

展示条件が悪いというデメリットは留保し、「見せる→」「←見る」という本来的な意味を積極的にとらえオルタナティブな可能性を探っていく事は、これからますます重要な事柄になっていくだろう。作家側にとってはもちろんのこと、見る側にとってもだ。
知己の作家の作品を、約束された空間で、約束したように見に行くのは正直のところ少々退屈なものだ。駅で見かけたポスターにつられ行ってみて、約束されていない空間に「挑戦」的に展示されていたというのも、悪くない出会いだ。

アート/美術と呼ぶもの、呼ばれるものは枝葉が好き勝手に伸びきるように多様化した。奔放に生い茂ったそれらは、個に専心し、他との関係、他への関心をかたくなに拒絶しているように見受けられる。それはあるがままに受け取るしかないものだが、ただ、この状況が「いま」を一番良く映しだしているとは思う。

アート/美術のことに限らず、社会全般に「いま」隔絶化、断片化が進んでいる。そこかしこで孤絶な個がひしめいている。『関係ない!』は世の隅々に浸透し、他との関係性の中に自らをおいてみるという能力を失いつつある。
やがて、すべてのものが精神性において他との関係性をもたない孤立した存在となってしまうかのような暗い想像さえしてしまう。

文化は社会の「ゆがみ」や「ひずみ」に対して敏感で、修復能力をもつものだが、文化そのものが硬直化し、断片化、排他化、特権化すれば、当然その能力は失われる。「いま」はその逆方向のムーブメントこそ必要とされているし、そういう試行も各所で行なわれている。「引込線」もそのひとつであろうと受け取ったが、作家と批評家がベースとなるのは新しいし期待したい点だ。

所沢市は人口34万で世代間の人口数格差が少ない若い街だ。東京のベッドタウンではあるが、この十年間で”郊外生活型”とも呼べる型ができつつあり、都内とも周辺田園都市とも違った様相を見せ始めている。ギャラリーと呼べるのは市の持つ複合文化施設内にあるのみで、まだ美術とは縁の薄いところだが、縁の薄い分、新天地とも言える。新天地で新たな試みがなされるのはとても意義深い。

工場の会場をあとにしつつ、ふとニューヨーク郊外のDIAビーコンを思い出した。元ナビスコの工場を美術館にしたところだ。

所沢だけではなくアートプロジェクト全般の実施、実行の、キーとなっていくのは、作家ー作品ー批評ー観客ー支持ー支援を織り上げていく「編集力」だろう。その辺のことも含めて今後を見守っていきたい。



所沢ビエンナーレ・引込線
http://tokorozawa-biennial.com






| 風景の行方 | 17:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
夜明け前の境内を急いだー出雲のおおやしろ
ooyasiro


早朝というよりまだ夜。
午前3時半に松江のホテルを出た。
昨夕、借りておいたレンタカーに乗り込むと出雲大社を目指した。

道なれている地元の人なら30分も車を飛ばせば着くらしいが、
結局1時間ほどかかって到着した。
コンビニで買ったおにぎりとカメラをリュックにいれると
駐車場から整理券を配布する門前目掛け、夜明け前の境内を急いだ。

暗がりの中に配布所の白いテントがぼんやりと見えた。
昨晩から並んでいたと思える人たちが十数人
近づくと、その後ろにも、その後ろにも人が並んでいて、
少し不安になりつつ最後尾まで行き並んだ。
見渡してみると先頭から百番目ほどだった。

出雲大社 本殿特別拝観、最終日
何とか拝観できそうなので安堵した。
前日は朝7時に三千人以上並んでいて、午後12時半には整理券配布が終わったという話だった。最終日の今日は大変な混雑が予想された。後日ニュースで知ったが、期間中に拝観した人は27万人にも及んだそうだ。
やはり朝5時半すぎには千人以上の列となっていた。

いずものおおやしろ(ふさわしい呼び方だ)本殿は、通常では塀に囲まれた外からしか見る事ができない。
もちろん、塀越しでもその存在感の大きさに圧倒される。
三十年ぶりに訪れたが、以前にも増して感動が押し寄せてきた。
太古の面影を残すその雄大な姿は、まるで巨大な生き物のようだ。
そこに大型の草食恐竜がたたずんでいるような感じがするのだ。
特別拝観とは、本殿域内に入り、本殿に上がりその回廊から建物内部を拝見できるというものだが、まさに”恐竜”とふれあうといった感だった。
三十年という歳月を経ても同じく心動かされることをうれしく思いもし、ありがたかった。

今の本殿は江戸時代中期(1744年)に建て替えられたものだ。
その前の建替えは江戸時代初期(1667年)で、この時に高さ48メートルだったものを半分の24メートルにした。
おそらく建物の高さ以外は、その姿を忠実に再現していると思われるが、
なにせ、その前の建替えは鎌倉時代初期(1248年)なので400年以上も経っている。建築工法や条件、環境といったものは随分変わったことだろう。

記録に残っている最初の建替えは平安時代(987年)だが、その後260年間に6度も倒壊したようで、建替えるたびに意匠(デザイン)の基本は堅持されつつも、その時代の工法や道具および材料、そして匠たちの精神が反映したものとなったであろう。たぶん平安時代の本殿は現存する江戸時代のとはかなり違った雰囲気だったに違いないし、創建初期の弥生時代は言うに及ばないだろう。
それぞれの時代を反映しつつ、おそらく遥か縄文時代より現代まで、おおやしろはかたくなに守り、守られてきた。その気の遠くなるような”時間”と”意志”は結晶と化し、本殿空間を取り巻いている。

とめどもなく想像は広がる…
おおやしろのある地は縄文時代から「聖なる地」かつ「重要な地」で、やはりそれらを表す象徴的な建築物があったにちがいない。なぜならおおやしろの前は外洋から少し中に入った天然の良港だったからだ。人や物が発ったり着いたり、行き交ったりする場だった。いきおい大きな建造物が求められるし、祈る場も必要だ。

縄文土器と弥生土器とは姿形、製法が全く違う。おそらく建築物も随分違った形をしていただろう。今のおおやしろから推測できる弥生時代の姿よりも、ごっつく「高かった」のではないか。火焔土器のようにかなり装飾的だったかもしれない。
弥生の人々はそのままは受け継がなかったが、その「高さ」は着実に引き継いだ。
伝えられる高さ96メートルという話もありえるような気がしてきた。

古代メソポタミアのジッグラトが思い起こされる。
神の住まいはとても「高い」ところにある、とは「発明」ではなかったか。
メソポタミアはその「発明」を具現化した。そしてそれは世界に伝播し、神殿として高い建造物が造られたり、山や丘の上に神殿が築かれた。発明を取り入れたところもあれば、そうでないところもあった。
世界の各所は隔絶していて、偶然『神の住まいはとても高い』という発明があっちでもこっちでもなされたとは考えにくい。
人類史は移動、移住の軌跡だ。「跡」は「道」となった。道を通って伝播したと考えるのが自然だ。



国道脇の食堂、昼飯をすませ裏の川べりから山と空を望む。
なんでもない出雲の風景。
なんでもないが美しい。


| 風景の行方 | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
埋もれずにゴミとなる
hako

形(かたち)とは鍛えられるもの…だとしばしば思う。
石を彫って何かの形をつくる。
木を彫り、組み上げ何かの形をつくる。
鉄を切り溶接し、形をつくる。
土もまたしかりだ。

切り、割り、削り、たたき、磨き、張り合わせ…
形作る行為というのは、まるでモノ(素材)に形を覚え込ませるような営みともいえる。
それは石や木といった「実材」でなくても、絵の具や墨、インクなどもあてはまる。
モノたちはある形に鍛えられて、この世に出現する。
鍛えられた形は「人の意思」で満たされる。
モノに命を吹き込む、などと言ったりもする。

博物館で石器時代の石斧や石包丁などを見かける。
石器時代の人々は、鋭く割れる石を選び、程よい大きさや鋭利さを求め石を割り、研ぎだし斧や包丁を作り出していた。
土の中から、それらが発掘されるとき、すぐさまそれらが使われた時期や人々の事が特定できる訳ではないだろう。情報量はかなり少ない。
しかしそれらが人間の手で作られた事は直感的に伝わるものだ。
他の石ころとは違う、人の手によって「鍛えられた」かたちである事が伝わるからだ。

ルーブル美術館にあるミロのヴィーナスは、ギリシアのミロ(メロス)島の農夫が畑仕事をしていて、土の中に埋まっているのを偶然発見したものだ。
想像するに、はじめ鍬などの先に像の一部があたり、何かと思いその辺りの土を除けていくと、大理石の石肌が現れる。その微妙な膨らみのある形は建築部材のような幾何学的なものではないようだ。どんどん土を掻き払っていく。始めに出てきた形の奥には細かな曲線をもつ部分がでてきた。なんと耳の形をしている。彫像に間違いない。そして順次、頭が、胸が、腰がというふうにでてきた…順番などはどうでもいい。

メロス島には行かなかったが、ギリシアの土は赤黒い粘土質といったものではなく、かなり白っぽい黄土色だ。大理石は白肌色といえばいいか、そんな色の彫像が埋まっていたとしても、そんなには目立たない。手先で慎重に被っていた土を払っていくうちに、分かってくる。その石が「鍛えられた」形であると感じられた時のときめきはどんなだったろう。
掘り進むうちに想像をはるかに越える発見に身震いした事だろう。

学生時代、奈良巡りをしていて、聖林寺の十一面観音像と出会った。
あまりの美しさに感動し、時の経つのを忘れ見とれていたのだが、
その時、そこの僧侶がこの観音像の由縁を話してくれた。
もう、その話のほとんどは忘れてしまったのだが、やはりミロのヴィーナスと同じように観音像も一旦は打捨てられ土に埋もれてしまったのを、偶然発見され掘り出して寺に安置したという話だった。洋の東西で似たような話があるなと感心して記憶した。
この文を書くにあたり、聖林寺のHPを確認してみたが、上記の話はでていない。奈良を再び訪れる事もあるだろう。その時の宿題としておこう。
ここの十一面観音像は奈良時代創建の大和大御輪寺の本尊だったそうだ。
天平時代の傑作の一つだ。

ともかく…
人が作り出したものーそれがどんなに素晴らしいものであっても、廃棄されることがある。
いや、ほとんどが廃棄される。
時代キャストの交代か、価値観の変遷か、あるいは放棄せざる得ない事件のせいか、新たな局面には不必要なものとなり、棄てられ、忘れられ、埋められ、埋もれていくのを黙認されてきた。それが歴史ということなのだろう。
「人の歴史は廃墟となる」とはベンヤミンの言葉だ。

しかし、棄てられ、忘れられ、埋められ、埋もれたものたちも、時を経て、ある時発見される時がある。発掘され、再びこの世にその姿を現す事がある。
もちろん発見、発掘されるものすべてが価値あるものとして歓迎されるわけではない。
見つけられたが、またすぐに廃棄されるものもある。
選別の基準となるのは「鍛えられた」形であるか否かであろう。
それがすべてではないが、はじまりではある。

我々の生きているこの時代が廃墟となったとき、何に埋もれることになるのだろうか?
もう土砂に埋もれる事はないだろう。
鍛えられた形もそうでないものも、一時代が過ぎれば、それはゴミとなり分別される。
ゴミの分別は材質別に行われ、処分される。
ここがベンヤミンの生きた時代とは大きく違うところだ。

石は砕かれ砂利として撒かれ、
木は燃やされ、
鉄やブロンズは地金として溶かされる。
埋められることもなく、埋もれることもない。
「再発見」も「発掘」も無い。ましてや「土に帰っていく」という事の無くなった時代を、私たちは生きている。

aoioka


上の写真は『青い丘』という作品だ。95年の個展『現代に思ふ、土に想ふ』の時に展示した。
この展覧会までにつくられた作品たちは、常に「自分、自分のこと」というのが陰を落としていた。しかしそれもこの個展がきっかけとなり、ふっきれた。
テーマが次に移行する事により、この時に展示した作品たち、つまり95年までに作られた作品は『無用』のものとなった。どこかに「しまっておく」ことにして、忘れてしまっても良かったのだろうが、『何に埋もれることになるのだろうか?どう埋もれさせる事ができるのか?』ということが気になった。

5年が過ぎた。
2000年6月の個展は『失ったのは記憶、されど行く』とタイトルをつけた。
つくられたものたちが、何に埋もれさせる事ができるのか、どう埋もれてしまうのか、何の答えも見つけられなかったが先に進まなければならないといった、気合いというか気負いのタイトルだった。

そして同じ年の暮れ、丸木美術館での展示では一度自らが「埋めてみよう」と思いたった。
「自分、自分のこと」という陰が落とされた作品たちを土に埋め、その上に、その後の作品を置いてみる…そして何が見えてくるのかを見てみたかった。※1

「埋まった」作品たちの姿は悪いものではなかった。
しかしあくまで“展示”であったので仮の姿だった。
数年後、この時の「埋めた」作品のうちから3点が韓国の慶南美術館に引き取られることになった。今頃は”展示”も終わり倉庫の中にしまわれている事だろう。
美術館の裏庭にでも埋めさせてくれと申し出た話は以前書いたが、実現する可能性は今のところ薄い。※2


※1/ http://rofungsok.ro21.org/1.html

※2/http://yukue.ro21.org/?eid=521137
    http://yukue.ro21.org/?eid=522078

kohyang

写真/開発の進む慶南美術館のある韓国・昌原市街





| 続/作品の行方 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
広がるのは閉塞の風景だけだ
heisoku_kabe

『閉塞感』といったものを、この国の風景の中に感じ始めたのはいつの頃だろうか。
具体的な事件なりがきっかけになったということがなく、はっきりとは思い出せないが、じわりじわりと息苦しさは感じてきていた。
それはどうもバブル絶頂期の頃だったようだ。
日本の会社がニューヨークのロックフェラービルを買っただの、
ボジョレー・ヌヴォーを大量に買い付けただの、
日本中が何かに取り憑かれたように浮かれていた80年代後半には、
派手な世相とはうらはらに、何かやり場のなさを感じていた。

そして20年経ったいま、
『閉塞感』は、”感”ではなく、ままの『閉塞』そのものを目の当たりにしている。
『閉塞』は年間3万人以上を自殺に追いやり、
川崎市金属バット事件のノブヤ、オウム真理教事件の高学歴幹部たち、神戸連続児童殺傷事件のサカキバラ、大阪小学校児童殺傷事件のタクマ、そして今回の秋葉原連続殺人事件のカトウを産み落とした。もちろん他にもたくさん…
「他殺含みの自殺」とは、自分以外は「あと全部」にしか見えないせいではないか。
壊れてしまった可哀想な自分以外は、親も兄弟も友人も世の中すべてが一つの巨大なコンクリートの壁にしか見えないという事だろう。

『閉塞』はどこから来たのだろうか。
長く考えてきた。
やはり「疎外」や「排除」から生まれてきたのだろう。
意識的な疎外や排除行為もあったろうが、自己営為の膨張がそのような『仕組み』を作ってしまったと言った方が正しいような気がする。
政治もそのような風潮に持ちつ持たれつ、牽引、助長したのは言うまでもない。

社会システムが未熟で不備な場合、人々は無駄な労力ばかり多く生活するに不便だ。
ところが反対にあまりに効率化優先に築かれると、アソビがなくなり非人間的になる。
システムを構築し運用するためには、『例外』を排除することが最も早道となる。
ー70%の人々ができるなら、残り30%の人々も同じようにできるに違いない。
様々な運動で残り30%を10%までにできるなら、その10%は例外とし無視していい。
無視すればシステムは安定し効率的かつ合理的だ。ーこんな感じだろうか。

六三三制の教育制度、その上は四か二だ。
義務教育は六三までだが、高校進学率はだいぶ前から90%以上で、
高卒が例内で、残り10%弱の中卒は『例外』とされる。
例えば、中学を卒業した後、数年働いたあと高校に入る。
普通科高校の途中で専門高校に入り直す。
高校の同級生の年齢がまちまちになる。
何も悪くないし間違ってもいない。かえっていいくらいだ。
しかし、現状はかなりキツイ。

少子化で大学全入時代とかいう声さえ聞こえてくる。
み〜んなが六三三四。なんか恐ろしい。
『総なんとか』『唯一なんとか』ほど恐ろしいものは無い。
人はいろいろな人がいて、色んな人生があって世の中が面白くなるのに…
九七制、六六四制、十六制、四六六制など色んな制度が、地域や私立、職種別、教育理念にあって、親子共々選択に悩み、複雑で分かりにくく、行政者が汗だくで対応しなければならない…
といった学校制度のほうが、人は生きやすくはないだろうか。
少なくとも『例外』は生じにくくなる。

それがどんなにつまらないシステムであっても、システムは文明であるので、
人々はシステムから振り落とされないようにしがみつく。
システムは規則正しく運行されるので、乗り遅れれば一大事だ。
最近では、システム内でも鼻くそほどのセレブなステータスができるようになり、競ってそれに群がる。
システムは階層的に『例外』を作り出し,自動的に排除している。

効率化、合理化だけのシステム、
システム運用者にとってだけ都合のいいシステム、
例外を嫌う人々によりうわべだけ整備されるシステム、
こんなシステムが風景をも形作っている。
広がるのは閉塞の風景だけだ。

heisoku_escape


作品 "escape" 陶やきしめ


| 風景の行方 | 16:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
巨木文化が、古代の日本海沿岸にあった
izumo

出雲大社の話がつづく
八月の本殿拝観には何としても行きたい。
60年に一度のチャンスなのだから行くべきだが、
折り悪くも原油高、国内線航空運賃も値上げ、物価高…
タカイ、カネナイで意気がもうひとつ上がらないが、想像だけは先走る。
本を一冊購入して読んでみた。

【古代出雲大社の復元ー失われたかたちをもとめて】
大林組プロジェクトチーム/編
学生社/発行

面白い本だ。
古い文献や地域、宮司家に伝わる古代本殿(高さ48メートル)の姿を、
※現在の本殿は高さ24メートル
ゼネコンである大林組がプロジェクトチームを組み、
史料にあたり、資料を精査し、建設背景、環境、材料調達から設計、施工法、構造計算、見積もりまで考察、シミュレーションを行った。
そして言い伝えられているその姿が”ありえるもの=建築可能なもの”として証明してみせた。

このプロジェクトレポートは1988年の大林組のPR誌で発表されたそうだ。
レポートに対する反響がどうであったのかは分からない。
好意的だったのか?冷淡だったのか?
よく分からないが、なんと発表から12年たった2000年4月に、
本当にその古代本殿の柱根元が発掘されたのだった。
証拠の”ブツ”がでてきて、レポートが正しかったことが実証されたのだ。

この本はプロジェクトレポートと発掘調査資料、
そして出土した柱根元-写真までを一冊にまとめたものだ。
面白くないわけがない。

しばらくは、この本にそって想いをめぐらせてみる。
読み進める中で教えられる事は幾つもあったが、中でも目を見張った箇所は、
「縄文期以来の巨木文化が、古代の日本海沿岸にあった」というところだ。
トウダイモトクラシ…

○能登半島の真脇遺跡
5500年前(縄文前期頃)のもの
直径1メートル弱の巨木柱根跡が十八本もサークル状に並び
サークルの直径は7〜8メートル、柱と柱の間隔は1〜2メートル
寄合所、あるいは宗教施設なのか用途は不明
というものだ。
○新潟県青海町の寺地遺跡
○富山県の井口遺跡
○金沢市西南部のチカモリ遺跡
○その他、秋田県や鳥取県でも発見されている

出雲大社とこれら縄文時代からの巨木遺跡が関係ないはずはない。
大社本殿は巨木文化の流れの中で成立したものに違いない。
そして、他は時の流れの中で遺跡となったが、出雲大社は弥生時代以降の権力(大和王権)との駆け引きの中で生き延び、怖れられ現代まで命をつないできたのだ。

能登半島は家族旅行で二度ほど行った事があるが、
真脇遺跡のことはまったく知らずにいた。
惜しい事をした。
ただ、そのすぐ近くの珠洲市という所に行った時、博物館で珠洲焼というものを見た。
古墳時代からの須恵器という陶芸技術を受け継ぎ、12世紀頃から焼かれた青灰色の焼き締め土器だ。須恵器は古代朝鮮(三国時代-高句麗、百済、新羅)から伝わったものだ。珠洲焼が新羅の発掘土器とあまりによく似ているのに驚いた。
何百年も経ってなぜ須恵器を復活させたのか?
その間の技術の伝承はどうしていたのか?
珠洲焼のモチベーションはどんな背景からでてきたのか?

西暦700年代にまとめられた『出雲国風土記』に新羅の名がでてくる。
大和王権成立と三国の関係はよく知るところだが、
出雲を頂点とした日本海沿岸巨木文化圏が、新羅と深い関わりがあったとは実に興味深い。

巨木を扱う事ができた人々なら、おそらく舟も巧みに作った事だろう。
真脇遺跡は古代イルカ漁でも有名だ。
巨木に神性を見いだしていたことは十分承知だが、高く大きな櫓状の建築物は、海を見守るため、また海からもよく見えるという実用機能をかねていたのではないか。
巨木文化圏の拠点間を頻繁に舟が往来する姿が目に浮かぶ。
後世、このルートを北前船は通る事になる。

| 遙か遠くの光景 | 14:20 | comments(1) | trackbacks(0) |
古代は、我々の小さな想像力を軽く凌駕する
jinja

冬の朝は、暖かい寝床が恋しくなかなか起きれない。
春になり起きやすくはなったが、粘っこい眠気から目が覚めない。

そんな寝床でうとうとしながら、朝のラジオを聞いていた。
出雲大社で遷宮が行われ、今年に限って本殿内が特別拝観できるとのこと……
聖火リレーの出発点を辞退した善光寺に落書きがされていた……
国宝である○○は……
「どちらも国宝だな…」
ボーとしたまま起き上がった。

夜になって、ニュースを確かめてみた。
善光寺のニュースは確かめなくても盛んに流されていた。
出雲大社の方はネットで調べてみた。
確かに今年、本殿を大修繕するらしい。
先月、出雲大社の事を書いたので、その偶然に少し驚いた。
60年に一度の好機到来だ。是非も無く行くべきだろう。

出雲大社本殿というのは、本当に破格だ。
超絶、ウルトラなものだ。
現在の規模は、高さ24メートルというものだが、18世紀の立て替えまでは高さ48メートルもあり、日本で最大の木造建築物であった。しかも、まだ遺跡などは発掘されてはいないらしいが、創建当時の古代から幾世紀は、高さ96メートルであったという説もある。
(大林組が作ったCG画像はスゴイ)
あまりにも大きく高い。「謎」と呼ぶにふさわしいくらいの規模だ。

出雲大社の創建は、紀元4年だそうだ。
そのころの風景を想像してみる。
弥生時代の後半なので、
稲作は始まっているので、辺り一面は田畑が広がる。
その中に吉野ケ里遺跡のような集落が所々ある。
建物は茅葺き(かな?)
高さは集落一高いものでも今の4階だてくらいだろう。
住宅は平屋がほとんどで、それこそ大家族で住んでいたのだろう。
周囲は林や森だ。遠くには山並みが見える。

この基本的な風景は現代までつづくものだ。
この基本の一角が、一地域が、一地方が時代とともに変化してきたのだ。
この風景の、あるところに古墳がつくられ、伽藍や都がつくられ、城が築かれ、城下町ができ、工場が建てられ、都市ができあがった。

日本で最初の超高層ビルは1967年の霞ヶ関ビル147メートルだ。
おおよそ二千年も前の96メートルとは、いったいどういう事なんだろう。
確証が得られている48メートルだって恐ろしい高さだ。
低かったものが高くなったのではない。
高かったものが低くなったのだ。
二千年間、この国を見守ってきたと十分いえる。

神社の起源では、本殿のような建物などはなかったようだ。
大きな岩や森が、そのまま信仰の対象であったという。
拝殿、本殿といった建築物が一般的になるのは、
仏教が伝来し伽藍が建立されるようになってかららしい。
神社に本殿が無かった頃、いきなりの超絶大神殿
本当に不思議だ。
古代は、我々の小さな想像力を軽く凌駕する。


tenbou

| 風景の行方 | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
「いにしえ」との遭遇
greece

幼い頃、自分の住む街の「風景」は、当たり前だった。
当たり前ーというのは、
それが「いい風景」だとか、「いやな風景」だとかいう判断以前だった、ということだ。
それは自分の親が、この人たちで当たり前ということと一緒で、
それが「いい」とか、それは「いや」とかいうものではなかった。

風景のことを感じたり、考えたりするようになったのは大人になってからなので、
相応に幸せな子供時代を過ごしたということなのか、
あるいは、そんなことは考えもしないぼんやりした子供だったということになるが、
どうも後者のようだ。

風景や景色というものを強く意識しだしたのは、一人旅にでるようになったころからだ。
十七だか十八だった。
建築家・菊竹清訓の本を読み、何だかやみくもに出雲大社が見たくなった。
当時「青春十八キップ」があったのかどうか知らないが、
とにかく金がないので、急行には乗らずにひたすら鈍行を乗り継ぎ行ってみた。

夜行で東海道を下ったのか、早朝の列車に乗ったのか忘れたが
出雲市駅には真夜中についた。
それまで関東以外は行った事がなかったので、
すべてが新鮮で、おまけに一人旅という事もあり、
まるで海外にでも行ったような気分だった。

出雲大社の社殿は圧倒的な存在感だった。
30数年前の記憶で詳細な事はすべて風化してしまったが、
圧倒された記憶だけは、いまでも鮮明に残っている。
何で自分がこんなに感動しているのか理解できなかった。
長い歳月が過ぎたいまでも明快に語れる自信はない。

その圧倒された記憶は衝撃となり、自分の中の何かを大きく変化させた。
脳の中の塞がれていた部分が、突然開いたような感覚だった。
「いにしえ」との遭遇ー
そんな感じだろうか、
東京でも比較的新しい街に育ったせいで、
身近にいにしえを感じさせる風景はまったくなかった。

ややこしいことに、出雲行きが与えたインパクトは、
もう一つの窓をも開けてしまった。
一人旅…
友人との二人旅、家族旅行、グループ旅行、修学旅行のような団体旅行
それぞれに思い出はあるが、一人旅は全く違う。
自分との旅…
世の中のすべてと自分が、一対一で向き合える旅

「いにしえ」との出会いー
一人旅…
振り返ると、この二つの事がその後の人生を決定づけたようだ。
といっても、考古学に進んだ訳でも、旅人に専念できた訳でもなかったが
この二つの誘いが、強い力で人生を引っ張ってきたような気がする。

出雲大社に行った頃は、まだカメラは持っていなかった。
その後も写真を撮るという事さえ煩わしく思え、カメラ無しであちらこちらを歩き回った。
一人旅の記録としての写真が残り始めるのは、
出雲行から十年近く経った後からで、ギリシアの旅あたりからだ。

パルテノンはもちろんのこと、ミケーネ、クレタ島は
すばらしい「いにしえ」との出会いだった。

greeve2

上の写真はミケーネ-獅子の門
下の写真はクレタ島-クノッソス宮殿
二枚とも三十数年前の写真でだいぶ退色しているが、もともとおもちゃのようなカメラで撮ったものなので質はだいぶ悪い、




| 風景の行方 | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
自然を搾取することは、人間を搾取すること
genpatsu3

金の相場があがっている。
そのあおりで閉山になった金鉱山を再び採掘しようとしているという。
金ばかりでなく、世界中が資源に血眼になっているようだ。
もちろん資源争奪は今に始まったことではないが、
資源がマネーを呼び込み、数十倍、数百倍、数千倍と膨らむようで
何かおどろおどろしい姿を想像してしまう。

27日の朝日新聞の朝刊、「ロシアはどこへ」という記事
ロシアで採れる石油や天然ガスで富豪が続々と誕生しているという。
10億ドル長者が2000年にはロシア内でひとりもいなかったのに、
2007年には53人も現れたという。
10億ドルとは1000億円なのだから、「億万長者」が1000人の束にならないとかなわない。

記事では、現代版ロシア宮廷画家か?ともいえるサフロノフという画家を取り上げているが、肖像画から風景画、前衛絵画まで軽くこなし、かなりの高額で売りまくっている。
所変われば品変わるーという言葉があるが、美術も所変われば…のようだ。
バブルに乗れ!乗れ!!が21世紀的美術家の生き方なのか??
片手には絵筆を握り、片手には経済誌。すこぶるトレンディー!
見渡してみるとロシアのサフロノフさんばかりではなさそうだ。

それにしても、「自国の資源」という考え方はどうなんだろうか?
たまたま資源の眠っている上に、線引きした自国の領土が上に乗っているだけであって本当にその「所有権」を臆面もなく主張できるのだろうか?

核兵器により”地球“を壊すことができるー
”世界”を滅亡させることができるー
”地球“環境問題、”世界”市場と
”地球“ ”世界”という語が飛び交い、その考えが当たり前になりつつある昨今、
”地球“の資源を「自国の」と強弁しているようにも聞こえる…

大きな河川はいくつかの国をまたぐことがある。
川の上流にある国が、水利事業を効率よく進めれば、その国は潤う。
しかし下流にあるお隣の国は干上がってしまう。実際の話だ。
教育テレビの「高校地理」でやっていた。

『自然を搾取する労働(産業労働)は、かならず人間を搾取する』とは
シャルル・フーリエという人の考えだそうだ。※
このすばらしい語は、「労働」を抜いても成り立つだろう。
『自然を搾取することは、人間を搾取することになる』
いずれ高〜〜いツケが回ってくるんじゃないか?
何10億ドルのツケが…

※講談社現代新書【作ると考えるー受容的理性に向けて】今村仁司 P130からの引用

genpatsu2


写真は原子力発電所と作品/その近くの海と作品






| 風景の行方 | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
道行く人々の顔は無表情で青ざめていた
jipsy

厚着をしていたので、映画館に飛び込んだときはかなり汗ばんでいた。
夕闇が迫る頃の街というのは魅力的で、上映時間が迫っているのに
かまわずシャッターを押し続けていた。
結局、渋谷の街中をカメラをかかえて走る事になった。

急いで重いコートを脱ぎ、席に着いたと同時に映画は始まった。
まだ息が上がっていた。
始まってまだ数分だった。スクリーンの奥から歌声があふれてきた。
女の声だが太くかすれている。言葉は分からない。
しかしメロディーはどこかで聞いたようななつかしいものだった。
目から涙がこぼれた。

泣ける、泣けたという余裕ではなかった。
映画は始まったばかりで、まだ何も語られてはいない。
まるで条件反射のように、その歌声に、何を歌っているのか分からない歌に
3秒で勝手に涙がこぼれてしまった。

歌声の主は、ジプシークイーン エスマのものだった。
マケドニアの女性歌手、中年以上だろうが年齢は良く分からない。
美空ひばりを連想した。
「声」というのは、すごい力があるものだと思い知らされた。

映画は『ジプシー・キャラバン』
インドの北西、ラージャスターン(パキスタンに隣接)を起源として
11世紀から世界に流れていったジプシー(ロマ)達の末裔
その優れた音楽は、各地のものと融合したようだ。
現在はスペイン、ルーマニア、マケドニア、インドに住み
その地で活動する5つのバンドがアメリカツアーを行ったドキュメンタリーだ。

とにかくその音楽には圧倒されっぱなしだったが、
そこは映画の作り手がこだわったところらしく、魅力は十分に伝わって来た。
何より彼らの人生、生きている風景をきちんと映像におさめて
見せてくれたのはすばらしかった。

インド・ラージャスターン
踊り手である男性に家の中でインタビューしている。
男性の向こうには戸外が見える。
そこをラクダが横切る。
この地ではラクダはまだ重要な交通手段のようだ。
ラクダが人を乗せて歩いているのが普通の風景なところだ。

ルーマニアは、ジプシー村に住んでいるバンドなのだが
首都から20キロしか離れてはいない村だが、かなりの田舎風景だ。
バンドの中心的な存在だった最長老ヴァイオリン弾きニコラエが亡くなり、
その家の窓の外で、仲間達が夜通し演奏する姿は
人を送る真の姿に思えた。

八年前、父を見送った。
その出棺の時、お経も大切だろうが、歌で送ってあげたかった。
朝鮮民謡を。
歌ってくれる人を、知人に探してもらった。
歌手はそれなりにいたが、みな断られた。
そのときの事を思い出した。

ニューヨーク、ロサンジェルスなどの大都会に
それはそれはローカルな土地に住む彼らの音楽が鳴り響く。
熱狂する聴衆。

映画館はほぼ満席だった。
映画が終わり、感動と興奮をもって館をでた。
素朴で豊かで濃い顔を2時間見た後、
冬の夜の渋谷、道行く人々の顔は無表情で青ざめていた。


| 風景の行方 | 18:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
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