行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
かの地も、この地も武蔵国のうち
kamosu

東京国立博物館での阿修羅展がすごい人気らしい。
『興福寺ではケースの中に入れられているが、ここではガラス越しでなく見られるので非常にいい』
こんなコメントをどこかで読んだ。
…??
ケースの中に入っていたかな〜??
確か昔は入っていなかったような気もするが、三十年も前の記憶だからおぼつかない。
真夏の奈良を汗をふきふき歩き回り、ひんやりした寺の堂内で、深いため息をつきながら見た記憶だけが鮮やかに思い出される。

あの阿修羅像は乾漆でできているし、細い腕が長くて数も多いので、運ぶのは大変だ。
運搬料もかなり高額だっただろうから、十万人単位の観客動員に関係者の方々は安堵していることだろう。
いや、おつりのほうが大きくて笑いが止まらないというほうが当たっているかも知れない。
三十年ぶりの古い友に会いに行くように、上野に行く気もなくはないが、
やはり奈良の風景の中で再会したいので、行かない事にする。
次の「奈良のイケメン」との再会が、たとえガラス越しであっても仕方ない。

人混みはかなり苦手なので、連休中に出かける事は滅多に無い。
阿修羅展に行かないもうひとつの理由だ。
この連休中もほとんど家に居て作品、本、テレビと向き合っていた。
ただ運動がてら近所はちょくちょく散歩した。
中氷川神社に行ってみた。

一年ほど前、飯能にある郷土資料館で、模型でできた遺跡地図を見た。
その模型地図の範囲は、飯能ばかりでなくその周辺まで含まれていて、我が家の周囲も入っていた。
「縄文」のボタンを押すと、縄文遺跡の場所の豆電球がつくという、定番のやつだ。
土地勘の働く、自宅の近所に注目しながらボタンを押してみた。

古代からの神社として、「中氷川神社」の表示がでた。
農道を広くしたような、やたら車がスピードを上げて行き交う県道の脇に、石の鳥居が立っている。あの神社は、いにしえからのものだったんだ。

神社の前に立つ。
鳥居が県道に面してやや窮屈に立っているが、そちらが本参道とのことだった。
おそらく県道がつくられるとき、参道を容赦なく横切ったのだろう、本来の参道はもっと長かったに違いない。

境内に入り、由来書を読む。境内には他に誰もいない。

『創建ー崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く……』
崇神天皇とは、実在したのではないかと言われている第10代の天皇。
在位が紀元前97年から紀元前27年という。その御代に造られた神社というのだから相当古い。

『御祭神ー素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちむちのみこと)』
なるほどスサノオを祭っているんだ…

『社殿ー後鳥羽上皇の御字に…
    山口領主高治が…
    昭和六年から…
    御本殿は出雲大社造(心の御柱二十五尺)、古御本殿は元禄二年造立の春日造鱗葺社殿』
エ、エ!!本殿が大社造(たいしゃづくり)??

別に神社巡りが趣味ではないので、そんなに多くの神社に行った訳ではないが、
出雲地域以外で大社造の神社を見た事が無い。
出雲からとんでもなく離れたこの地域に、なぜ大社造の神社があるのだろう??
とにかく本殿を見てみることにして、階段をかけ上った。

上には拝殿があり、その横を回り込み、本殿の斜め前に立つ。たしかに大社造だ。
屋根は、檜皮ではなく銅板葺きだが、千木(ちぎ)も鰹木(かつおぎ)もある。
高床の本殿に入るために急な階段がある。本殿の平面は正方形で、建物の周りをぐるりと回廊がついている。本殿は山を背負って立ち、前には拝殿がある。出雲のおおやしろと同じだ。
「なぜここに…」
しばし不思議の感にうたれていた。

拝殿前に戻り、上ってきた階段から眼前の風景を見る。
小高いので見晴らしはいい。この感じ、このロケートをどこかで記憶した覚えがある。
拝殿を背に、右に向かうと「和魂宮」という建物があり、通り過ぎて坂道を降りていくと、拝殿前の階段下にでる。「かもす」に似ている。

昨年夏、出雲大社の特別拝観を見たあと、古代出雲歴史博物館や荒神谷遺跡をめぐりつつ、レンタカーで松江へと向かった。++2008年8月稿「夜明け前の境内を急いだー出雲のおおやしろ」
この短い旅は、まず出雲大社を再び訪れる事、そして松江の神魂(かもす)神社に行くことにしていた。
神魂神社の本殿は現存する最古の大社造だと聞いていたからだ。出雲のおおやしろは1744年の再建築。一方、神魂神社の本殿は1583年の再建築で160年ほど古く、その分いにしえの姿に近い。

車にはナビがついているのだが、使い方が良く分からない。来る前にネットで調べたおおまかな地図を頼りに車を走らせ、幾度か近くを行ったり来たりしながら探し当てた。宍道湖からそう遠くない、小高い丘にあった。

ゆるやかな坂道の参道をのぼっていき、急勾配の石の階段の上に拝殿、そして本殿があった。
たしかに大社の本殿に比べると、大きさは小振り…高さが半分ながら、かたちは骨太な太古の趣を感じさせる。本殿も感動的ではあったが、何より神社全体の醸し出す雰囲気が、いにしえよりの聖域そのものであることを物語っている。詳しく調べてはいないが、おそらく創建当初から大規模な土木工事はなされずに今日に至っているに違いない。

その「かもす」に、この「中氷川神社」が似ている。
この所沢という地は、明治時代に陸軍が日本初の飛行場をつくったというくらいの話しか無く、主に戦後に宅地として開拓開発されたところだ。歴史時間の煮詰まりを感じさせるようなところはほとんどない。釈然としない気持ちで、再び由来書の前に立って、それを眺めていた。

そこに運良く、宮司さんと思われる方が通りかかられた。
人気の無い境内で、中年男が長い時間何をしているのかといぶかられたのかも知れない。
その方に、疑問を尋ねてみた。

以下は、そのお話----
本殿は、昭和2年に、その時の宮司さんが大奔走し、国の役所などから何とか許可を得て、大社造の本殿を建てる許可を得て建てることができました。終戦までは自由に本殿などは建替える事ができずに国の許しが必要だったのです。実は江戸時代も幕府の許可が必要で、それはかなり厳しいものだったようです。

大社造の本殿というのはかなり珍しく、その時の宮司さんが出雲などに出向いて研究されたそうです。きっと神魂神社にも行かれたことでしょう。この一帯は古代に「出雲族」が多く住んだところで、その近くには「渡来系」の人々の集落も多かったらしいです。出雲族と渡来系は共に鉄器生産で連携があったようで近くに住んだか、あるいは国の命でそのように住まわされたのでしょう。

ここには、昭和四年に近くの山口貯水池をつくる際に湖底に埋もれた旧勝楽寺村にあった七社神社を合祀しています。旧勝楽寺村とは朝鮮半島より日本に渡来した百済人、高麗人の居住した地と伝えられいる村です。
----おおよそ、こんなお話だった。

想像だが、創建時この神社の本殿は大社造だったであろう。昭和2年の建替え時の宮司さんは、その歴史をひも解かれて、復興すべく奔走されたのであろう。戦前はどの役所が、神社の立て替えなどを管轄していたのかは、これから調べるとして、長く国によって宗教はコントロールされてきたことを物語るエピソードだ。大和朝廷以来、出雲族に気兼ねをし出雲族を恐れてきたことだけは確かなようだ。それが形式上とはいえ20世紀まで続いていたとは、気が遠くなる。

話を聞きながら、古代の風景がパノラマのように広がるのを感じた。
同時に、自身の”近視眼脳みそ”を恥じた。
歴史を今の地理感覚で計っては駄目と、常々感じているのに、ついつい「いま」を基準に物事を考えてしまう。

ここから北西へ向かえば、日高というところで、高麗神社がある。
一帯は高麗郷といい、むかし渡来系の人々の里であった。
高麗神社は、この里の長でもあった高句麗から渡来した高麗王若光を祭っている。
高麗の先は霊地秩父だ。

反対に、南東に下ると府中だ。武蔵国の国府が置かれた地だ。
周辺はいまだに武蔵を冠した地名が多く残る地域だ。
府中は、多摩川に沿うようにあり、多摩川は渡来系と縁の深い川であることは良く知られている。
府中には大国魂神社があり、大国魂大神が祭られている。
大国魂は出雲大社の御祭神・大国主の別名であり、大国主はスサノオの子(もしくは子孫)である。

20世紀の渡来系であるぼんやり頭の筆者は、生まれは山梨だが、生後何ヶ月かで東京に、以来多摩川の丸子橋付近で育った。原風景はと自問してみても多摩川の風景しか浮かばない。長じて家族を持つ頃にバブルがやってきて、その波に押し流されるように、住み慣れた城南を離れ、新興住宅地所沢にやってきた。

縁もゆかりも無いところにやって来たと思っていたが、近視眼鏡を外してみれば、かの地も、この地も武蔵国のうち、まんざら縁がなくもなかったということのようだ。

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※写真は二枚とも島根県松江市にある神魂神社





| 風景の行方 | 13:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
「虚」と「実」
品川ビル

川崎から恵比寿に電車で向かう。
途中、品川駅を通る。
ちょうど昼時でもあるし、品川で降りて原美術館に行くことにした。

品川の駅前というか、駅横下には『なんつっ亭』というとんこつラーメン店がある。
原美術館の帰りには、いつも立寄り食べていく。
品川=原美術館+なんつっ亭 とセットになっている。

原美術館で何の展示をしていたのか、チェックはしたが忘れてしまっていた。
でも、この美術館の企画は大きな”はずれ”がないので、足が向く事が多い。
それに、この美術館自体の由縁、立地、建物は気分がいいもので、歩いていくだけでも損は無い。

品川は、ここのところ東海道新幹線の新玄関となり、海側には相も変わらずの高層ビルがどんどん建てられて、すっかり、やっぱり、しっかり鉄+ガラス+コンクリート巨壁群のモダン風景(そうそうまだまだ”モダン”の内なんですよ…)となってしまったが、山側には古金色の三菱開東閣が一段高く木々の中に鎮座しているという対照が面白い。

開東閣は三菱の創業者岩崎弥太郎の邸宅であり、原美術館も明治からの実業家原家の邸宅だったものだ。
高輪、白金とつづくこの一体は、江戸時代大名屋敷が並んでいた地で、明治以降の歴史的な建築も数多く残っている。山側には初期資本主義の風景が残り、海側には末期(…おそらく)資本主義の風景が拡がっているという構図だ。

渡辺仁設計の原美術館は初期モダニズム様式と言われているが、その建物の中でコンテンポラリーが展示されるというのも、時の層が感じられていいものだ。コンドル設計の開東閣は現在一般に非公開で三菱の内輪だけで使われているらしいが、有効土地利用などといって地上50階のホテルにしてしまおうなどという声もでてきそうだが、天下の三菱なのだから、東京中央郵便局のような高級トレンドスーツに祖父の草履をはかせるような再建築計画だけは勘弁してほしい。
「古色」というのは時がつくるもので、金ではつくれない。

いつもは帰りに立ち寄る「なんつっ亭」なのだが、朝からたくさん電車に乗って空腹だったので、改札をでるとフラフラと店内に吸い込まれてしまった。
相変わらずラーメンはうまかったのだが、どうも順番を変えたのが良くなかったようだ。
食後は神経がどんよりするようで、美術館に入っても頭がどんよりしている。
ビールもコーヒーも、そしてアートもやや空腹が丁度いいようだ。

ジム・ランビー というアーティスト
アンノウン・プレジャーズ というタイトルの展覧会
アンノウン・プレジャーズとは”未知の快楽”という意味だそうだ。
ところが、どうもどんより頭には、プレジャーズがいっこうにやってこない。
次に行くときには正しい順序で行こう。

どんより頭も恵比寿に着く頃には、すっかり晴れたようだった。
東京都写真美術館へ行った。
やなぎみわ ”マイ・グランドマザーズ”では間違いなくプレジャーズがやってきた。
「虚」と「実」が面白い。
そして「物語性」が面白い。
正順路で一度見て回ると逆順でまた見て回り、そしてひとつひとつを丹念に見た。

作家はモデルと話し合い、設定を決め、メークし、場所を選び、道具立てを準備し撮影している。実際に実物を写している。ところが真実ではない。画面に「嘘」がある。
アナログの人や景色を撮っているのだが、巧妙にデジタルで処理してあり虚を感じさせる。
「実」を撮って「虚」とさせるところが面白く、そしてその「虚」によって、「実」をより強く実感してしまう。

だいぶ前に”エレベーター・ガール”という作品も見たことがあるが、ガール達のありえない並びよう=「虚」が、女性のこの社会での扱われ方=「実」を、痛烈に、鮮明にそして不思議な甘美さで現していた。
この作家はフワリと立ち位置を変えているな。
いや、価値の軸を違うところに持っているな、という感じを持った。

先月、《美術は「在る」ことにこだわって数世紀を経た》と書いたが、
美術は、あるいは美術もと書くべきかもしれないが、「存在」ということに長くドロドロになって拘ってきたと直感的に思っている。
この作家は、その「虚」をもって、もうそのドロドロには軸を置いていないと感じさせるのだ。

私は、「存在」それは「近代」とも深いところでつながっていると疑っている。
同様に「物語性」は「近代」から疎まれ、「存在」から遠ざけられてきたとも思っている。
この作家の語らんとする「物語」自体にさほどの興味は無い。
それは私が「男」だからかもしれないし、「近代人」だからかもしれない。
おそらくその両方だろう。
ただ、この作家が邪険にされてきた「物語性」を何事もなかったようにスルリと扱い、観るものを楽しませてくれているのは頼もしい。

東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイスという複合ビル内にある。
ここは昔、サッポロビールの工場だったところだ。鉄道を使って材料の搬入やビールの出荷をしていた。貨物列車がたくさん並んでいたのを、線路の向こう側からよく見た。
悪くない風景だった。


ビル夜





| 風景の行方 | 16:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
「去り行く風景」死と生
去り行く風景

もう三十年も車の運転をしている。
こんな姿を車の運転中に時折見かけることがある。
車の後部座席に乗っている子供達が、進む方向とは逆向きに座り、リア・ウィンドウから外を眺めている。後ろを走る車に手を振ったりする。
彼らが見ている風景とは「去り行く風景」だ。
視界の脇に現れたビル、電柱、人、車…風景がみるみる遠ざかり、やがて見えなくなる。

「去り行く風景」は、シーンとして映画やドラマの中でも使われたりする。
列車の窓際に座り、車窓外を眺める役者。
列車が発車しスピードを増すとともに、街の景色が段々と小さくなっていく。
役者は小さくなっていく街を眺めながら、その街で起きたことなどを回想するーといった演技をする。
「去り行く風景」は過去そのものだ。

今月初めに、福島まで車窓の人となったが、新幹線なので「去り行く風景」を楽しむゆとりもなく、おまけに滞在4時間という慌ただしいものだった。
福島には、県立美術館で展示している旧知の美術家・金暎淑(きむ・よんす≒よんすぎ)の作品を見に行った。
知己の展示とはいえ福島は近くはない。その作品タイトルに惹かれ行ってみる事にした。

『毎日死んでいく私のためのお葬式』と題されたその作品は、100枚の写真によるインスタレーションだ。面白く、そして考えさせられるものだった。
作品は、ある日の作家自身の葬式用ポートレートから始まる。ある日の「死」のための写真だ。
次の日は前日撮ったポートレートを胸に持ち、その日のポートレートを撮る。
その次の日は、また前日撮ったポートレートを胸に…… 。
一日、一枚。この繰り返しを100日間行い、100枚の写真としたものだ。

例えば、7月31日の写真には、7月30日に撮った写真を持った「私」が写っていて、
その30日の写真には、29日に撮った写真を持った「私」が写っていて、
その29日の写真には、28日に撮った写真を持った「私」が写っていて……
理屈で作品を解釈すると、最後の100枚目、つまり11月2日版には、1枚目から99枚目までの写真が写り込むということになるが、実際にそんなことはありえない。一目で確認できるのはせいぜい5、6日分だが、それで十分だ。「去り行く風景」のように、またたく間に風景は小さくなっていき見えなくなってしまうように、5、6日前のものは見えなくなってしまう。

彼女は、始まりを自身の誕生日である2008年7月26日を選んでいたが、そこに深い意味は無さそうに思えた。それは最後の日であった11月2日にも、100日という期間も同様だった。任意の「ある日」から、「ある日」までと受け取るべきことだろう。特定の誰かではなく、人は誰も、いや生きとし生けるものはすべて、「ある日」を迎え、そしてその「ある日」を見送り、また「ある日」を迎える。表現は作家特定だが、意味は普遍的だ。

昨日の「死」が、今日の「生」となる。
「死」がなければ「生」もない。
「毎日死んでいく私」は「毎日生きていく私」という意味だ。
「死」とは去っていくことで、「生」とは、今ここにいる、ここにあるということだ。
無心に「去り行く風景」を見る後部座席の子供達、あれにはそんな楽しみがあったのか…

この展示は、他に宇田義久、KOSUGE 1-16 という出品者と共に『福島の新世代2009』という福島県立美術館の企画展として行われたものだ。三つの展示はそれぞれが表現形式の全く違ったものであったが、〈「見せる」もの〉=現代美術という面においては、同じ次元にあるものであった。
三者の〈「見せる」もの〉をそれぞれに楽しみ、ぼんやりした頭で展示場から出た。

さて…… 
常設展示でもと二階の会場にノロノロ上がっていった。
暗い会場に入ると、何かがこちらを見ているような気配を感じ、緊張した。
『居るな…』
「居る」とは、「在る」と同じだ。
場内には十点ほどの彫刻が展示してあった。
その彫刻達の存在感が、こちらを見ていると感じさせたのだった。

中でもぼんやり頭を正気に戻してくれたのは、ねずみを写実的に彫った小さな彫刻作品だった。
鳥肌が立った。
『ただ者じゃないな…』
まるで剣豪のような仕事だ。
キャプションを覗き作者を確認した。
「佐藤朝山(玄々)」

福島に〈「見せる」もの〉を見に来たが、〈「在る」もの〉とも出会った。
「居る」「在る」と感じさせるものと出会うのは、ほんとうに久々だ。
つい、ほんのちょっと前まで、美術は「在る」ことに拘って数世紀を経た。
ダ・ヴィンチは『モナリザ』をそこに「在る」「居る」ように描いた。
「まします」から「在る」への移行だった。
「在る」に迫る力、佐藤朝山(玄々)の力量は大変なものだ。

名前は以前から知っていた。
少し前にも平櫛田中美術館で作品のひとつ『聖徳太子像』を見ている。
なぜ、こんなに凄い彫刻家だと分からずにいたのだろう。
帰宅してネットで調べてみて、合点がいった。
往時から天才と呼ばれていたそうだが、代表的な作品の大半が終戦間際の大空襲によって失われたということだ。本当に残念だ。

「去り行く風景」の中から、いまに向かって光を投げかける〈「まします」や「在る」もの〉達、そしてそれらばかりではなく、地上のすべてを焼き尽くし焦土とできるウルトラな力を持ってしまった『現代』
甲斐性もないくせに、今日もぐずぐずとあれこれ思ってしまう。


福島県美
福島県立美術館
http://www.art-museum.fks.ed.jp/menu_j.html







| 風景の行方 | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
どこかの「国民」にならざるをえない
kyonju

2002年5月、韓国の慶州に立ち寄った。
前日までの数日間光州市にいて、光州ビエンナーレの展示確認とシンポジウム出席を終え、釜山に移動した。翌朝慶州に向かい、夕刻にはソウル行きのバスに乗るというほんの短い滞在だった。

慶州は古くは金城(クムソン)といい、古代王国新羅の首都であった地だ。歴史遺産が多く、日本の奈良のようなところと言えるだろう。実際に奈良と高句麗、百済、新羅の三国は、大和政権の成立から平城京(奈良)にいたるまでかなり濃密な関係だった。

新羅は朝鮮語読みではシルラと発音する。ルは舌を巻いた発音で母音はない。
新羅の旧名は徐羅伐(ソラボル)もしくは斯盧国(シロ、サロ)で、当時最も栄えていた地域名だ。金城(クムソン)とはおそらく中国との関係が濃くなってからの後付けであろう。
ソラボル、サロ、シロとも表されていたシラ、そのシラに漢字をあてがい新羅と表記したようだ。新羅=シルラとは、実に漢字臭くない名前だ。当て字っぽい。反対に高句麗はいかにも漢字臭い。

三国はその後、新羅によって統一され、のちに高麗、朝鮮となっていくので、いまの一般的な歴史認識は逆算方式で、「同一民族」だということを基調としていて、「国」の歴史としている。ほんとうは当時の段階では「朝鮮半島地域史」というほうが正しいだろう。

ややこしいことを言うようだが、新羅などの古代王国は朝鮮史、韓国史のうちというくくり方は、「国民国家」の世ならではの方便であり、往事に立つならば新羅は新羅であり、高句麗は高句麗なのだが、それを現代中国、韓国双方で「高句麗は我が国の歴史」と引っ張り合うのはいかがなものだろうか。ましてや日本のある大学の講義中に「高句麗は韓国=朝鮮とは言えない」という先生もいたりして、本当にあきれてしまう。

いわゆる高句麗、百済、新羅の三国時代には、実はもうひとつ伽耶という小国家群が含まれる。南部を流れる洛東江流域にあった。小国家というのがどの程度の規模を指すのか分からないが、複数部族が合併してできた「支配地」と考えるのが妥当だろう。高句麗、百済、新羅もはじまりの頃はそのようなものだったろう。

その一帯に多くの部族が集落を持ち居住していたが、中でもある地域がとても栄え、他を圧迫、やがて支配下に置く。雪だるまのように段々と大きくなり、「くに」と呼べるような大きさにまでなった…ということだ。それは「くに」達の歴史であって、近代国家の歴史認識で量るものではなかろう。

囲いの中に棲んで飼いならされてくると、方便、常識以外は理解不能なものになるようだ。そのことを痛快に打破してくれる一冊の本と出会った。
『ローマ文化王国ー新羅』という本だ。
由水常雄/著 新潮社/発行

ユーラシア大陸には古くから東西を横断するステップ・ルート(草原の道)と呼ばれているものがある。一部現在のシベリア鉄道もそこを走っている。約8000キロだそうだが、日本の長さが約3000キロなので、途方もない距離とも感じない。ハンガリーから朝鮮半島にいたる道だ。この道を通り、黒海辺りのローマ文化が直接的に新羅にもたらされというものだ。

「常識」的には、四大文明の中国というものが近くにあり、三国ともにその「衛星」だったと語られてきたが、実は新羅というのは、高句麗、百済とは違い、中国文化は受けずにローマ文化を受容してきた国であったというのが、この本の趣旨だ。

本を購入してから、もうだいぶ経つがなかなかすべてを読み切れない。
冒頭から読んでいたが断念し、終章を読み、あとは気になるところから拾い読みをしている。内容は衝撃でさえあり、抜群に面白いのだが、読むのに時間がかかっている。それは著者が持論を好き勝手に語っている本ではないからだ。まるで警察の「鑑識報告」みたいに「物証」をたくさんの図版とともに、丁寧に説明しているせいだ。

「物証」とは1973年から韓国政府が行った慶州での大発掘の成果をさす。天馬塚、味鄒王陵、皇南洞墳から発掘された冠などの装身具、馬具、器、トンボ玉、ガラス杯、リュトンなどをひとつひとつローマ文化や中国文化と比較し、総合で新羅がローマ文化国であったことを証明している。

私の父祖の地は現在の韓国慶尚南道の昌寧というところで、伽耶であったところだ。盧という姓は大元(おおもと)は中国で生まれ、そのうちの子孫のひとりが昌寧にやってきたという。伽耶だったころにやってきたのか、統一新羅のころか、それ以降なのかは良く分からない。いずれにせよ、ユーラシアは地続きで移動はむずかしいものではなく、遠い昔に枝分かれした血縁がハンガリーあたりにいたとしても何の不思議でもない。

人の移動が難しくなったのは、交通手段も発達した近代になってからだ。国境が決められ、旅券が必要となった。旅券は国交があるのみ通用する。人々の旅、移動は国家が決める事となった。
遊牧民クルド人が彼らの「くに」=居住地を失う事になるのは、周辺国の勝手な国境策定のせいだった。また現在のアフリカの窮状は、実情を全く考慮せずに支配国達の駆け引きだけで分割し国境をつくったのが主原因である。近代に移行するための犠牲=生けにえとされたのだ。

18世紀末のフランス革命あたりから生まれてきた「国民国家」という枠、囲い。
それを受け入れざるを得ない時期に生まれたので、致し方ないとあきらめてはいる。
誰もがどこかの「国民」にならざるをえない。
しかし、人の作った物は、やがて使えなくなる時期が必ずくる。
いくつもの嵐が過ぎたあとであることは確かだが、そう遠い未来のことではないだろう。

できれば来年ふたたび慶州を訪れ、今度はゆっくりと巡ってみたいものだ。



silla




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「自分」って空洞なんだ
jousui


世田谷にある砧公園、数年ぶりに来た。
23区内にある公園の中でも、かなり大きなほうだろう。
子供がまだヨチヨチ歩きだった頃、家族でよく訪れた。あの頃と何も変わっていない。

広い芝生の広場、遠くまで連なる大きな樹木が気持ちいい。
駐車場から落ち葉を踏みしめながら、
ダニ・カラヴァン展を見るため美術館に向かった。

世界のあちらこちらに、環境彫刻作品を「設置」というより「建設」してきたカラヴァンの展覧会をどうやって行うのだろうか。自分なりに展示を予想しつつ期待をもって歩く。
美術作品を見るのに、ある程度歩かなければならないというのは良い事だ。
山手線の駅を降りたら、すぐ目の前が美術館なんていうのは、気持ちをリセットする時間がなくて、作品と出会うのにはかえってマイナスだ。

展示は予想以上でも以下でもなかった。
予想通り、カラヴァンの主作品である各地に建設された環境彫刻作品は映像や模型で紹介されていた。それしか方法はない。
この展覧会のために作られたインスタレーション作品が二つあったが、個性ある世田谷美術館自体のデザインに、あまりにもはまり過ぎていて、際立ってはいなかった。
収穫だったのは、カラヴァンがまだ環境彫刻に乗り出す前の、舞台美術の模型や図面、壁面レリーフが興味深かった。

幾何立方をいくつも組み合わせたような壁面レリーフの作品は、私自身の懐かしいことを思い出させてくれた。
大学を卒業したての頃、とても自由であったが、まだ「何を作るべきか?」ということがまるっきり見えていなかった。周囲は真っ白くぼんやりとしか見えていなかったのだが、その事に自分も気づいてはいなかった。何よりも「自分」が見えていなかった。
それなのに何かを作りたいという衝動だけが身体の中でうずいていて、やみくもに思い浮かんだ順に粘土で作ったり、木を彫ったりしていた。その頃作った木彫のひとつが、カラヴァンの壁面レリーフに似ていた。完成する事無く放棄した。

途中放棄する作品がいくつ続いただろうか…
放り出された作品を前にして「自分とは何なのか?」「人とは何なのか?」「いまここに立っている世界とは何なのか?」そんな問いがふつふつとわき上がってきた。
いくら苛立っても、立ち止まって考えて答えをだせる自信はなかった。
そのうちいつかどこかで確かな”もの”と出会えるだろうと、仕事をし、本を読み、旅をし、展覧会や映画を見、人と交わり、思い、考え、話し…そして作品を作った。それはいまも続いている。

その次の週。
小平市にある平櫛田中美術館に行った。彫刻家ひらくし・でんちゅうの住まいに美術館を建てたもので、旧宅も残されている。
企画展の『仏像インスピレーション』を見るためだ。
サブタイトルはー仏像に魅せられた彫刻家たち 円空、木喰から平櫛田中、荻原守衛、高村光太郎、そして現代彫刻までーというものだ。

住宅街の中にあり、館は小振りだが、内容の濃い素晴らしい展覧会だった。
ロビーには、高村光太郎の『手』、萩原守衛の『文覚』
ただただなつかしい。
展示の冒頭は、明治の彫刻家達が作った仏像が多く並んでいた。
ほとんどが小品なんだが、それがいちいち良い。
こっちが歳をとったのか、沁み入ってくる。
中でも、いままで全く知らなかった大内青圃の仏像に惹かれた。
とても愛らしい。
茶髪でミニスカ制服の女子高生も、きっと、これを見れば
『かわいい〜』の連呼に違いない。
地下の展示室は、戸谷成雄、黒川弘毅、舟越桂、三沢厚彦などの現代彫刻であったが、まったく違和感なくいい流れの中で見れた。

久しぶりに彫刻だけの展覧会を見て、故郷に戻ったようななつかしい気分だったが、目の中が立体でゴロゴロしているような感じになった。
最後に、もう一度、碌山の『文覚』を見て外に出た。
相変わらず確かな存在感だ。巌のようだ。
碌山の頃は、「人は巌」と感じていたのだろうか

玉川上水の土手道を駅に向かって歩いた。
青い花が咲いている。
ついこないだ「人って空洞なんだ」とふと思った

空洞。入り口も、出口もある空洞。
経験、体験、知識、情報が空洞に入り込み、
そして、しばし滞留し、やがて出て行く。

幾年も留まるものもあれば、すぐに出て行くものもある。
吸収され血肉となるものものもあれば、吐き出されるものもある。
空洞の命ともに、そこに生涯居続けるものもある。

空洞内を探して進んで行けば、光り輝く「自分」と出会うのではなく、
空洞そのものが「自分」なのだ。
どんなものを取り入れる入り口を持っているのか、
空洞内は何を歓迎し、何を見過ごすのか、何を拒否するのか、
取り入れたものを、どのようなものにして出せる出口を持っているのか。

色んなものが「自分」という空洞に入ってきては、出て行く。
世界は「自分」の中に入り、そして出て行く。


hitobito

| 風景の行方 | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
「身体」表現なくして美術史ってありえない
anun


株価大暴落
金融危機
世界恐慌
恐ろしい活字が新聞紙面を踊っている。

1万8千円あった平均株価が、あっという間に8千円を割り込んだ。
この1万円の落差こそ、私達を取り巻いている「大きな囲い」の影のようだ。
健全な経営をしていて利益もきちんとあげている有望な会社の株が、
突然半値になってしまう。ほんとうに恐ろしい。
窓を開ければ、実際は秋晴れの空が広がっているのに、
「大きな囲い」の中の私達の暮らしは暴風雨の下だ。
映画『自転車泥棒』のシーンが頭の中をよぎる。

秋晴れだけど見えない黒い雲が渦巻き、雷光が走っている…そんなある日、横浜トリエンナーレに立ち寄ってみた。
暴風雨の中の、小さな庇の下に集められた作品たちは、あるものは「囲い」に抗議し、唾をはきかけ、あるものは我が身の小ささを嘆き念仏を唱え、また他のあるものはこのように成り果てた世界をあざ笑っていた。共感できるものもあり、そうでないものもあった。ただ感動を覚えるようなものはなかった。

メイン会場にあったマーク・レッキー『白い巨大な蛮族の行進』というビデオ作品が気に入り、珍しく2回も見てしまったが、YouTubeで見ても十分なような気もした。まあ、YouTubeも膨大な数のコンテンツがあり簡単には面白いものに出会わないだろうから、横浜で出会うようにしてくれた意義は感じた。
どしゃぶり雨のずっと東、六本木ではメサジェ展をやっている。
どうせならメサジェも横浜に呼んで一緒に展示してもらいたかった。
「世界恐慌」の声さえあがっているのに、六本木の高いビルで高い入場料を払うほど肝は座っていない。

横浜に行って数日が経った。
雷音はすさまじく鳴り止む気配無し。
公的資金投入に急上昇したものの、またすぐに暴落。
朝日新聞に、この秋開催されているアジアのビエンナーレ、トリエンナーレ5カ所についての記事が載った。上海、光州、釜山、シンガポール、そして横浜だ。
【乱反射するアートーアジアの国際展から】というタイトル。

掲載二日目「2、身体」と題された記事の一節、
〈整形、ゲノムの解読に食品偽装やメラミン。一方で進む電脳化やスポーツへの熱狂。美術に限らず、現代の表現において「身体」は主要テーマであり続けている…〉(大西若人記者)
身体を巡る表現が国際展各所で見られたそうだ。横浜でもパフォーマンスが多く取り入れられた。
なるほど、言われてみれば巷にも「身体」を全面に出したものが少なくない。エクササイズビデオ、矯正下着、筋肉系エンターティメントなども挙げられる。

”最先端”と呼ばれる国際展で最もベーシックな「身体」なのか。
モダニズムやポストモダンはいざ知らず、美術史のほとんどは「身体」表現が関わってきたと言える。言い換えると「身体」表現なくして美術史ってありえなかった。
このことは意外にも盲点だったような気がする。
美術に関しては「身体」が再発見、復権されたといったほうが正しいと思う。
「身体」…この考えで美術史、文化全般をもう一度見直してみたい気がしてきた。

今も昔もそうだが、美大の彫刻科カリキュラムにおいて「身体」表現は基本とされている。
「身体」表現は「身体」を観察することから始まる。
「身体」観察から、「人体」彫像で完結する人も無論いる。
「身体」観察から、「人間」考、「人類」考に進む人もいる。
「身体」観察から、「存在」へと向かう人もいる。
ブランクージ、ジャコメッティも、みんなこのカリキュラムから始まった。

この一、二週間の間に、「実体経済」という語が頻繁に出てきた。
マネー経済、市場経済の反意語と勝手に思い込んでいる。
連呼され始めた推移から想像するに、勝手もそう遠くはいないだろう。
「実体」から遊離した経済ー幻影の経済があり、「身体」から遊離した文化ー幻影の文化があったということなのかな?…もう少し考えてみよう。


doguu

(紀元前2〜3千年 ギリシア彫像)


| 風景の行方 | 15:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
呼吸音はよく聞こえてくる
tokorozawa

暗い車庫内に幾本かの線路が引き込まれている写真。
その黒い写真を背景に「引込線」という白い文字が大きく刷られている。
駅に貼られていたなかなかイイ感じのポスターだ。
「所沢ビエンナーレ・プレ美術展」を知らせるもので、出品作家には知己の名前もでている。ポスターにまさしく引き込まれ、立ち寄ってみた。

展示会場となった工場の建物は、写真のような大きな空間だ。ただ線路はなかった。
建物はかなり古く、床のコンクリートは平坦ではあるが、少し気を使い歩く。
中はかなり蒸し暑い。
周囲の壁面も一様ではなく場所により違った造作だ。
採光は入り口のあたりがかなり明るく、奥にいくにしたがって暗い。
内部にあった物入れやパレットを隅に移動し並べたり積み上げたりして、会場にしつらえたものだ。

こういう会場での展示、作品が見やすいかと言えば、やはり見にくい。
作品以外のものに目が行きがちだ。
ただ不思議な事に作家たちの呼吸音はよく聞こえてくる。
”ライブ感”とでも言ったらいいのだろうか、歌手が舞台ではなく、目の前で歌っているといった感じだ。作家、作品が近く感じる。

だいぶ前から、いわゆる美術館展示室、ギャラリーは基本的にホワイトキューブになった。作品以外には神経が向かないようにしつらえてあるし、照明の使い方などで作品の表情が変わってしまったりするほどデリケートで、展示に特化してある。
作家にとっては申し分ないのだが、独尊的である分、「隔離されている」「孤絶している」といった感情の矛盾に陥ったりもする。

展示条件が悪いというデメリットは留保し、「見せる→」「←見る」という本来的な意味を積極的にとらえオルタナティブな可能性を探っていく事は、これからますます重要な事柄になっていくだろう。作家側にとってはもちろんのこと、見る側にとってもだ。
知己の作家の作品を、約束された空間で、約束したように見に行くのは正直のところ少々退屈なものだ。駅で見かけたポスターにつられ行ってみて、約束されていない空間に「挑戦」的に展示されていたというのも、悪くない出会いだ。

アート/美術と呼ぶもの、呼ばれるものは枝葉が好き勝手に伸びきるように多様化した。奔放に生い茂ったそれらは、個に専心し、他との関係、他への関心をかたくなに拒絶しているように見受けられる。それはあるがままに受け取るしかないものだが、ただ、この状況が「いま」を一番良く映しだしているとは思う。

アート/美術のことに限らず、社会全般に「いま」隔絶化、断片化が進んでいる。そこかしこで孤絶な個がひしめいている。『関係ない!』は世の隅々に浸透し、他との関係性の中に自らをおいてみるという能力を失いつつある。
やがて、すべてのものが精神性において他との関係性をもたない孤立した存在となってしまうかのような暗い想像さえしてしまう。

文化は社会の「ゆがみ」や「ひずみ」に対して敏感で、修復能力をもつものだが、文化そのものが硬直化し、断片化、排他化、特権化すれば、当然その能力は失われる。「いま」はその逆方向のムーブメントこそ必要とされているし、そういう試行も各所で行なわれている。「引込線」もそのひとつであろうと受け取ったが、作家と批評家がベースとなるのは新しいし期待したい点だ。

所沢市は人口34万で世代間の人口数格差が少ない若い街だ。東京のベッドタウンではあるが、この十年間で”郊外生活型”とも呼べる型ができつつあり、都内とも周辺田園都市とも違った様相を見せ始めている。ギャラリーと呼べるのは市の持つ複合文化施設内にあるのみで、まだ美術とは縁の薄いところだが、縁の薄い分、新天地とも言える。新天地で新たな試みがなされるのはとても意義深い。

工場の会場をあとにしつつ、ふとニューヨーク郊外のDIAビーコンを思い出した。元ナビスコの工場を美術館にしたところだ。

所沢だけではなくアートプロジェクト全般の実施、実行の、キーとなっていくのは、作家ー作品ー批評ー観客ー支持ー支援を織り上げていく「編集力」だろう。その辺のことも含めて今後を見守っていきたい。



所沢ビエンナーレ・引込線
http://tokorozawa-biennial.com






| 風景の行方 | 17:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
夜明け前の境内を急いだー出雲のおおやしろ
ooyasiro


早朝というよりまだ夜。
午前3時半に松江のホテルを出た。
昨夕、借りておいたレンタカーに乗り込むと出雲大社を目指した。

道なれている地元の人なら30分も車を飛ばせば着くらしいが、
結局1時間ほどかかって到着した。
コンビニで買ったおにぎりとカメラをリュックにいれると
駐車場から整理券を配布する門前目掛け、夜明け前の境内を急いだ。

暗がりの中に配布所の白いテントがぼんやりと見えた。
昨晩から並んでいたと思える人たちが十数人
近づくと、その後ろにも、その後ろにも人が並んでいて、
少し不安になりつつ最後尾まで行き並んだ。
見渡してみると先頭から百番目ほどだった。

出雲大社 本殿特別拝観、最終日
何とか拝観できそうなので安堵した。
前日は朝7時に三千人以上並んでいて、午後12時半には整理券配布が終わったという話だった。最終日の今日は大変な混雑が予想された。後日ニュースで知ったが、期間中に拝観した人は27万人にも及んだそうだ。
やはり朝5時半すぎには千人以上の列となっていた。

いずものおおやしろ(ふさわしい呼び方だ)本殿は、通常では塀に囲まれた外からしか見る事ができない。
もちろん、塀越しでもその存在感の大きさに圧倒される。
三十年ぶりに訪れたが、以前にも増して感動が押し寄せてきた。
太古の面影を残すその雄大な姿は、まるで巨大な生き物のようだ。
そこに大型の草食恐竜がたたずんでいるような感じがするのだ。
特別拝観とは、本殿域内に入り、本殿に上がりその回廊から建物内部を拝見できるというものだが、まさに”恐竜”とふれあうといった感だった。
三十年という歳月を経ても同じく心動かされることをうれしく思いもし、ありがたかった。

今の本殿は江戸時代中期(1744年)に建て替えられたものだ。
その前の建替えは江戸時代初期(1667年)で、この時に高さ48メートルだったものを半分の24メートルにした。
おそらく建物の高さ以外は、その姿を忠実に再現していると思われるが、
なにせ、その前の建替えは鎌倉時代初期(1248年)なので400年以上も経っている。建築工法や条件、環境といったものは随分変わったことだろう。

記録に残っている最初の建替えは平安時代(987年)だが、その後260年間に6度も倒壊したようで、建替えるたびに意匠(デザイン)の基本は堅持されつつも、その時代の工法や道具および材料、そして匠たちの精神が反映したものとなったであろう。たぶん平安時代の本殿は現存する江戸時代のとはかなり違った雰囲気だったに違いないし、創建初期の弥生時代は言うに及ばないだろう。
それぞれの時代を反映しつつ、おそらく遥か縄文時代より現代まで、おおやしろはかたくなに守り、守られてきた。その気の遠くなるような”時間”と”意志”は結晶と化し、本殿空間を取り巻いている。

とめどもなく想像は広がる…
おおやしろのある地は縄文時代から「聖なる地」かつ「重要な地」で、やはりそれらを表す象徴的な建築物があったにちがいない。なぜならおおやしろの前は外洋から少し中に入った天然の良港だったからだ。人や物が発ったり着いたり、行き交ったりする場だった。いきおい大きな建造物が求められるし、祈る場も必要だ。

縄文土器と弥生土器とは姿形、製法が全く違う。おそらく建築物も随分違った形をしていただろう。今のおおやしろから推測できる弥生時代の姿よりも、ごっつく「高かった」のではないか。火焔土器のようにかなり装飾的だったかもしれない。
弥生の人々はそのままは受け継がなかったが、その「高さ」は着実に引き継いだ。
伝えられる高さ96メートルという話もありえるような気がしてきた。

古代メソポタミアのジッグラトが思い起こされる。
神の住まいはとても「高い」ところにある、とは「発明」ではなかったか。
メソポタミアはその「発明」を具現化した。そしてそれは世界に伝播し、神殿として高い建造物が造られたり、山や丘の上に神殿が築かれた。発明を取り入れたところもあれば、そうでないところもあった。
世界の各所は隔絶していて、偶然『神の住まいはとても高い』という発明があっちでもこっちでもなされたとは考えにくい。
人類史は移動、移住の軌跡だ。「跡」は「道」となった。道を通って伝播したと考えるのが自然だ。



国道脇の食堂、昼飯をすませ裏の川べりから山と空を望む。
なんでもない出雲の風景。
なんでもないが美しい。


| 風景の行方 | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
広がるのは閉塞の風景だけだ
heisoku_kabe

『閉塞感』といったものを、この国の風景の中に感じ始めたのはいつの頃だろうか。
具体的な事件なりがきっかけになったということがなく、はっきりとは思い出せないが、じわりじわりと息苦しさは感じてきていた。
それはどうもバブル絶頂期の頃だったようだ。
日本の会社がニューヨークのロックフェラービルを買っただの、
ボジョレー・ヌヴォーを大量に買い付けただの、
日本中が何かに取り憑かれたように浮かれていた80年代後半には、
派手な世相とはうらはらに、何かやり場のなさを感じていた。

そして20年経ったいま、
『閉塞感』は、”感”ではなく、ままの『閉塞』そのものを目の当たりにしている。
『閉塞』は年間3万人以上を自殺に追いやり、
川崎市金属バット事件のノブヤ、オウム真理教事件の高学歴幹部たち、神戸連続児童殺傷事件のサカキバラ、大阪小学校児童殺傷事件のタクマ、そして今回の秋葉原連続殺人事件のカトウを産み落とした。もちろん他にもたくさん…
「他殺含みの自殺」とは、自分以外は「あと全部」にしか見えないせいではないか。
壊れてしまった可哀想な自分以外は、親も兄弟も友人も世の中すべてが一つの巨大なコンクリートの壁にしか見えないという事だろう。

『閉塞』はどこから来たのだろうか。
長く考えてきた。
やはり「疎外」や「排除」から生まれてきたのだろう。
意識的な疎外や排除行為もあったろうが、自己営為の膨張がそのような『仕組み』を作ってしまったと言った方が正しいような気がする。
政治もそのような風潮に持ちつ持たれつ、牽引、助長したのは言うまでもない。

社会システムが未熟で不備な場合、人々は無駄な労力ばかり多く生活するに不便だ。
ところが反対にあまりに効率化優先に築かれると、アソビがなくなり非人間的になる。
システムを構築し運用するためには、『例外』を排除することが最も早道となる。
ー70%の人々ができるなら、残り30%の人々も同じようにできるに違いない。
様々な運動で残り30%を10%までにできるなら、その10%は例外とし無視していい。
無視すればシステムは安定し効率的かつ合理的だ。ーこんな感じだろうか。

六三三制の教育制度、その上は四か二だ。
義務教育は六三までだが、高校進学率はだいぶ前から90%以上で、
高卒が例内で、残り10%弱の中卒は『例外』とされる。
例えば、中学を卒業した後、数年働いたあと高校に入る。
普通科高校の途中で専門高校に入り直す。
高校の同級生の年齢がまちまちになる。
何も悪くないし間違ってもいない。かえっていいくらいだ。
しかし、現状はかなりキツイ。

少子化で大学全入時代とかいう声さえ聞こえてくる。
み〜んなが六三三四。なんか恐ろしい。
『総なんとか』『唯一なんとか』ほど恐ろしいものは無い。
人はいろいろな人がいて、色んな人生があって世の中が面白くなるのに…
九七制、六六四制、十六制、四六六制など色んな制度が、地域や私立、職種別、教育理念にあって、親子共々選択に悩み、複雑で分かりにくく、行政者が汗だくで対応しなければならない…
といった学校制度のほうが、人は生きやすくはないだろうか。
少なくとも『例外』は生じにくくなる。

それがどんなにつまらないシステムであっても、システムは文明であるので、
人々はシステムから振り落とされないようにしがみつく。
システムは規則正しく運行されるので、乗り遅れれば一大事だ。
最近では、システム内でも鼻くそほどのセレブなステータスができるようになり、競ってそれに群がる。
システムは階層的に『例外』を作り出し,自動的に排除している。

効率化、合理化だけのシステム、
システム運用者にとってだけ都合のいいシステム、
例外を嫌う人々によりうわべだけ整備されるシステム、
こんなシステムが風景をも形作っている。
広がるのは閉塞の風景だけだ。

heisoku_escape


作品 "escape" 陶やきしめ


| 風景の行方 | 16:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
古代は、我々の小さな想像力を軽く凌駕する
jinja

冬の朝は、暖かい寝床が恋しくなかなか起きれない。
春になり起きやすくはなったが、粘っこい眠気から目が覚めない。

そんな寝床でうとうとしながら、朝のラジオを聞いていた。
出雲大社で遷宮が行われ、今年に限って本殿内が特別拝観できるとのこと……
聖火リレーの出発点を辞退した善光寺に落書きがされていた……
国宝である○○は……
「どちらも国宝だな…」
ボーとしたまま起き上がった。

夜になって、ニュースを確かめてみた。
善光寺のニュースは確かめなくても盛んに流されていた。
出雲大社の方はネットで調べてみた。
確かに今年、本殿を大修繕するらしい。
先月、出雲大社の事を書いたので、その偶然に少し驚いた。
60年に一度の好機到来だ。是非も無く行くべきだろう。

出雲大社本殿というのは、本当に破格だ。
超絶、ウルトラなものだ。
現在の規模は、高さ24メートルというものだが、18世紀の立て替えまでは高さ48メートルもあり、日本で最大の木造建築物であった。しかも、まだ遺跡などは発掘されてはいないらしいが、創建当時の古代から幾世紀は、高さ96メートルであったという説もある。
(大林組が作ったCG画像はスゴイ)
あまりにも大きく高い。「謎」と呼ぶにふさわしいくらいの規模だ。

出雲大社の創建は、紀元4年だそうだ。
そのころの風景を想像してみる。
弥生時代の後半なので、
稲作は始まっているので、辺り一面は田畑が広がる。
その中に吉野ケ里遺跡のような集落が所々ある。
建物は茅葺き(かな?)
高さは集落一高いものでも今の4階だてくらいだろう。
住宅は平屋がほとんどで、それこそ大家族で住んでいたのだろう。
周囲は林や森だ。遠くには山並みが見える。

この基本的な風景は現代までつづくものだ。
この基本の一角が、一地域が、一地方が時代とともに変化してきたのだ。
この風景の、あるところに古墳がつくられ、伽藍や都がつくられ、城が築かれ、城下町ができ、工場が建てられ、都市ができあがった。

日本で最初の超高層ビルは1967年の霞ヶ関ビル147メートルだ。
おおよそ二千年も前の96メートルとは、いったいどういう事なんだろう。
確証が得られている48メートルだって恐ろしい高さだ。
低かったものが高くなったのではない。
高かったものが低くなったのだ。
二千年間、この国を見守ってきたと十分いえる。

神社の起源では、本殿のような建物などはなかったようだ。
大きな岩や森が、そのまま信仰の対象であったという。
拝殿、本殿といった建築物が一般的になるのは、
仏教が伝来し伽藍が建立されるようになってかららしい。
神社に本殿が無かった頃、いきなりの超絶大神殿
本当に不思議だ。
古代は、我々の小さな想像力を軽く凌駕する。


tenbou

| 風景の行方 | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
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