行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
一本の直線 地中海から
columbus

ここしばらく、テレビでは「酒井!酒井!!」の連呼が続いている。衆議院選挙の名前の連呼とだぶり「さかい・のりこをよろしくお願いします」とも聞こえてしまう。ニュースの作り手・送り手が丁度「清純派アイドルのりぴー」のファンにあたる世代なのか、『だまされた!、欺かれた!!』という語気の荒さに当惑だ。

麻薬は大学生等にも広がっているという。
閉塞した現実は虚無感を生む。
麻薬蔓延の温床はこの虚無感ではないだろうか。
実はこの虚無感というのは、人間社会にとって慢性の恐ろしい病弊なのかもしれない。

坂道を元気によいしょ、よいしよと上っている時は病も鎮まっているが、停滞し始めるととたんに忍び寄ってくる。虚無という黒い海に落ちないようにするには、打ち寄せる波に気を取られず、日々の一歩一歩を大切にするしかないようだ。心の在り方という古くてそしていつも新しいこの事がキーでしかない。

しばらくバタバタしていて、大航海時代のイベリア半島から遠ざかっていた。(09年4月記事『気づくと”森”の中に立っていた』)
15世紀末のスペインから17世紀オランダの小さな村に行き着いて、そのままになっていた。岩波新書『コロンブス』を開いて、戻る事にしよう。この本の著者は増田義郎氏で1979年8月20日第1刷というから、丁度30年前に出版されたものだ。出版後にコロンブス研究で進捗があったかも知れぬが、いまは不問とし、やわらかい語り口の魅力あるこの一冊に沿ってみる。

冒頭から「なるほどな〜」と思わされたのは、当時の、15世紀ヨーロッパの「書き言葉」事情だ。当時のヨーロッパは「書き言葉」確立以前であり、文盲率もかなり高かった。このことは教育=学校という近代の重要な構築物を自動的に受容してきた私達には、ピンと来ない話なのだが、「書き言葉」の確立は近代化の重要な礎のひとつだ。

「書き言葉」が成立していないので、当時の公式文章はラテン語で書かれ、そのラテン語は公証人が書くことができた。一般の人々は、家の中の細かい決まり事から、借用書など残しておきたいものがあると、わざわざ公証人の所に行き文章にして証拠として残した。文字が書けるという事はまだ『特権』だった。

話すのは地方の方言、書くのはラテン語というのが長く続いたようなのだが、この15世紀中ほど辺りから、スペイン語(カスティリャ方言)が文語として確立してきて、コロンブスもこれを習得した。イタリアはトスカーナ、ナポリ、ヴェネティア、ジェノヴァと方言があったが、トスカーナ方言が文語の地位を確立し、ジェノヴァ方言はついには書き言葉にはならなかった。コロンブスはイタリアのジェノヴァ出身なのだが、方言は違えど、言語的に近い「トスカーナ方言の文語=イタリア語」を習得すればよかったような気もするが、あえてスペイン語だった。いやスペイン語でなくてはならなかったのだ。

それはジェノヴァ人(商人)が、数世紀前から地中海西側のポルトガル・スペインに数多く進出していて、ジェノヴァ人が活動しやすい地盤ができあがっていたせいだ。海洋国家の雄ジェノヴァは東にはライバル・ヴェネティアがいるし、オスマン・トルコもいて、熾烈な競争、紛争をしていた。しかし西にはまだ未開拓の可能性が充分あった。いきおい十三世紀頃からスペイン、ポルトガルという国へ進出していくことになる。時期はレコンキスタと重なり、王国、ジェノヴァ両者にとって好都合であった。

ジェノヴァ人は、造船や航海技術に長け、交易ばかりでなく、信用制度や為替、手形取引等の銀行業務を西地中海の各地に広め、やがて商業と金融を支配するようになり、社会の支配階級に進出していく。それに加え16世紀になるとジェノヴァ自体の内紛で資本や経営術が、両国に流れ込んだ。当然、資本は投資先を求める。コロンブスはベンチャーだったのだ。

コロンブスは伝承の国「黄金の国ジパング」を目指していた。この私はその伝承の国であろうジャパンにいる。コロンブスと私を結ぶものはその程度しかないと思っていたが、「ジェノヴァ人の活動」ここが歴史の流れの大きな分岐点のようだ。イベリア半島のジェノヴァ人とこの21世紀日本とは、一本の直線によって結ぶ事ができるだろう。地中海が育んだジェノヴァ人の経営、資本、金融、投資は、大航海時代の幕を開き、いまの私達の足下までつながっている。

イベリア半島に移り住んだジェノヴァ人の中に多くのユダヤ人がいたそうだ。以前より移住していたユダヤ人(スファルディ)とも太いつながりがあった。経営、金融に長けた彼らは特権階級にのし上がるが、強い反感反発を買うことにもなる。「郷に入れば郷に従え」で当地でうまく生きるためにはキリスト教(カトリック)へ改宗する者が多かった。この者たちはコンベルソといわれ、マラーノという蔑称でも呼ばれた。

コロンブスは支配階級にいるこのコンベルソ達から多くの資金、支援を受けることになる。コロンブスの航海はコンベルソ達の「活路」でもあったはずだ。改宗したとはいえ反ユダヤ感情はいつどんな形で噴出するか分からない。社会が停滞・閉塞したとき、虚無の黒い雲に覆われ、拒絶反応でヒステリー状態に陥ることがある。そのヒステリーの矛先がいつ「ユダヤ」に向かってくるかも知れず、そのことは骨身に沁みて分かっていたはずだ。烙印とは恐ろしいものだ。コロンブスが出航して17日後にスペインのユダヤ人追放令が下される。このタイミングは実に象徴的だ。

それにしても、ユダヤ人を多く含んでいたジェノヴァ人の社会とは、一体どんなものだったのだろう。ユダヤ排斥、弾圧は中世ヨーロッパでももちろんあった。ジェノヴァといえども例外ではなかっただろう。想像に過ぎないが、「海の民」というのはその辺かなり自由な気風で、社会制度においても鷹揚であったのではないだろうか。交易が主であるなら、金融は不可欠、人種、信仰よりシステムの動力となるものが尊重されたと思える。

また意外に思ったのが、ジェノヴァ人達の「身軽さ」だ。商機や成長を、ジェノヴァあるいはその近海に求める事ができなくなったとはいえ、けっこう簡単に他国に移住しているという印象を受ける。オスマン・トルコの脅威がすごかったのか、「海の民」ならではということなのか、ジェノヴァ特有なのか、この世紀あたりからなのか、移住した彼らは故郷のジェノヴァをどう思っていたのだろうか、よくわからないが気になる。

筆者増田氏は最終章で、フランシスコ会の会員・信者としてのコロンブスの世界観ー黙示録的、神秘主義的な信仰心について言及している。『世界の終末が迫っている。その前にもろもろの異教徒に布教して改宗させ、できるだけ多くの人間を神の王国に迎え入れなければならない』…
キリスト教布教と近代世界システム形成。コインの裏表なのか、より合わされた縄なのか、詳しく見て行けば、まだまだ興味深いことと出会えそうだ。

そういえば、『アマルフィ 女神の報酬』という映画が公開されている。そのアマルフィもジェノヴァとライバルの海洋都市国家だった。アドリア海に面したドブロヴニクも同時代の海洋都市国家だが、その城塞の石には、「世界中の黄金をもってしても自由は売らず」と彫ってあるそうだ。行ってみたいものだ。


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岩波新書『コロンブス』(地中海とコロンブス)の章、扉絵





| 風景の行方 | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
コギトの椅子
cogito

歴史とは面白いものだとよく思う。
目に見えるものではない、触って確認できるものではない。しかし誰もが簡単に口にする。
遺跡、遺物、美術品、土や板や紙に書かれた記録、写真や映像。それらは「歴史的遺物」ではあるが、歴史そのものではない。

歴史的な遺物やそれにまつわるエピソード、伝承、記憶などから想像、構成されるものが歴史なのだ。過ぎ去った日々は確実にあったものだが、いまは幾つかの遺品だけを残して消えてしまった時間。
歴史とは時間、記憶が枯れ、風化し土にかえったものとでも表現すればいいだろうか。そんな「歴史」そのものを何か見える形で表せないないだろうかと、かねがね考えていた。

ある日、椅子の形をした作品の姿が思い浮かんだ。
うまい具合に、仕事場の隅には改装工事をしたときに使った柱材の残りが、幾本か放置してあった。ほこりを払い、雑巾で拭いてやると、充分使えそうだ。少し材料を買い足せばいけるだろう。どんな形の椅子にするかは、閃いたイメージを忠実に再現すればいいので、苦労は無いのだが、さて、それからが、なが〜い作品との対話、格闘の日々だった。

結果的に、実に長い時間がかかった。着手からなんと一年半かかってしまった。
つくっては壊し、またつくるの繰り返しだ。最初に思い浮かんだ時の姿は、実に無責任なイメージだけで、それを「いま」の自分と折り合わせる作業に多くの時間がかかってしまった。


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椅子を知らない人は、この世にはまず居ない。万人の知る当たり前の「かたち」だ。
このかたちを借りて、かねがね思っていた「歴史」を表してみようと思う。椅子の柱、桁、背もたれ、座面のすべてに無数のひとの姿を彫り込んだ。森の中に生まれ、木を切り出し、やがて集落をつくり、他集落と奪い合い、砦をつくり、争い、巨大な権力を築き、他を殲滅、支配する…こういった姿を彫り込んだ。

風化して土にかえった時間や記憶の上に、新しい生活が生まれ営まれているのだから、歴史というのは足下にあるといえばあるのだが、普段は不可視で、特別に意識もされない。その存在が「当たり前」と認識されているというところが、椅子のかたちと似ている。

現在と歴史がつながっていることは、日々の繰り返しの中に突然起こる事件、事故、矛盾、衝突、紛争という現実の「裂け目」を通して知る事になる。例えば、ある事件を通して、ある個人の個人史を、その人の育った地域史を、その時代史を知りたくなくても知ったりする。

椅子には「裂け目」を作った。そして日常の風景を写真で挿入した。
現実・風景の裂け目から歴史をかいま見るのではなく、歴史(椅子のかたちをしているが)から現実・風景が見えるという事になった。

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作品が大方出来上がりつつある頃、これをどういうところにおいて見るといいのかを、しばらく考えていた。どう考えても現実・風景の中に置いて見るのが一番のようだ。しかしそんな場所はない。(後日、画像の中だが、渋谷の街角に置いてみた。これ、かなり気に入っているが現実には不可能だ)

展示場所を思いめぐらしている頃、展覧会出品の話がやってきた。現実・風景の中に置くべきものをホワイトキューブで見せるにはどうしたものか。いろいろ考えた末、椅子の中の一番大きな裂け目(というより”穴”)に、風景の中にある椅子の姿を映像にして映し出す事にして、出品することにした。椅子の一部に風景が映像で映し出され、その風景の中に椅子があるということになった。

作品のタイトルは『コギトの椅子』とした。コギトはコギト・エルゴ・スムのそれだ。
私達の眼前に広がる、この”来るところまできた”近代の風景は、やはりデカルトが源流であろうと思っている。コギトから始まった近代風景。アジアの果てで最も鋭くせり上がったその風景の一角に育ったのだから、何かを思わずにはいられない。

ロダンはデカルトの影響を多く受けたそうだ。代表作『考える人』は世界的に有名で、多くの国にある。
あの像こそ、まさにコギト・エルゴ・スムの像だ。彫刻作品としては、もちろん傑作であり何もいうことはないが、人は何の上に座って考えてきたのか、いや何の上で生きてこられてきたのか、という視点はなく、そろそろ、その事をきちんと考えるべき時期に来ていると思う。

『コギトの椅子』が展示してある展覧会は、韓国のソウル南郊の果川市にある国立現代美術館で開催されている『アリラン・コッシ(ありらんの花の種)』というタイトルの展覧会だ。
遠いところばかりで展示しますねーと、よくお叱りを受ける。そういえば、東京では2000年以来展示していない。残念に思う。








| 続/作品の行方 | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
一バレルの石油に等しき我が人生
eki

このところかなり忙しかった。
幾日も徹夜同然などという生活はしたくてもできる年齢ではないので、なるべくタスクが集中しないように努めてはいるが、どうにもならない時期もあるようだ。毎晩深夜までの仕事が続いた。

こうなった時は得策などはない。とにかく、毎日毎日へばりつくように、期限の迫ったタスクからひとつひとつ片付けていくしか解決の道は無い。丁度、ロッククライマーが崖というか巨岩にしがみつき、一手、一足を、無駄無く、効率よく、ひとつひとつ力を込めて登って行くように、あゝいう気分で仕事を片付けていかないと、タスクのすべてを無事に成し遂げられない。少々の休息はとっても、他の考えに意識を奪われ、気持ちが飛んでしまうとだめだ。

へばりつき、しがみつきもピークは数日で過ぎた。
ほっと一息、ビタミン剤を飲み、疲れた目に目薬を注しながら…
人の生というのは所詮”へばりつき、しがみつき”なのか。。。などとしびれた脳で考える。
フーテンの寅さんの人気が出たのは、何ものにもへばりつかず、しがみつかなかったためだ。寅さんのようには生きたくても生きられない世の中となったからだろう。寅さんも、イージーライダーも、ヒッピームーブメントも何ものかへのもがき、抵抗、反作用であったことは確かだ。流行などではない。

あまり話題にもされないし、どこかの正式な調査報告もないが、都内の鉄道人身事故はかなりの数に違いない。
車内放送の『ただいま人身事故のため運転を見合わせています』に、他の乗客達は何を思っているのだろうか?ラッシュ時に予定外のところに停車した電車、流される放送、あの異様な濁った沈黙の空気は何とも形容しがたい。新聞のほんの小さな記事にはなってもニュースにはならない。何事も無かったように列車の運行は再開されるが、あの空気はなくなることはなく、乗客達が分け合い引っずっていき拡散する。

連休明けの出勤時間。一番ブルーな時だ。何だか事故が多いような気がする。
不慮、不覚の事故?自殺? 
会社から”へばりつき”を拒否されたのか、
ホームから見上げた青空に”しがみつき”の人生が突然むなしくなったのか、
あるいは休暇が無かった過労のため足下がふらついたのか、
知る由もないのだが、想像しがたいものでもない。

”へばりつき、しがみつき”は生きものとしては当たり前のことだ。
しかし近代に入ってからのそれは、それ以前とは比較にならない次元を迎えた。
すり替えられたのだ。
”へばりつき、しがみつき”は「仕組み」の義務となった。
生きよう、生き抜こうという本来的な生きる意思は、共同体を支えるための犠牲精神となり、一時の美しさを持つが、波がひき高揚が去ると義務だけが残った。そしてその義務がまるで宿命であったかのようにすりかえられた。生き、働く事は国家の、機構の、市場のための義務と定義された。

あこがれの一戸建てマイホームは、産業革命の頃のイギリスで始まった「制度?」だという。一家族一戸制は世帯数を把握するのに良く、税がかけやすい。管理しやすいということだ。
人々の”生”を数量として把握、活用、制限、はたまた品質管理までしようということになった。一兵士が一弾丸に例えられるなら、一個人は一バレルの石油と考えられていても何の不思議は無い。
一バレルの石油に等しき我が人生。。。
そこに生きる意味を見いだそうとしても、ムズカシイ。

最近、漱石が多く読まれているという話を聞いた。
多くの人が「気づき」「探している」のだ。
漱石はロンドン留学中から近代文明、近代性の限界を感じていて、相当手厳しかった。
開化、開化の奔流のような時代のベクトルに疑念を抱いていた人だ。
小説とは別の意味で文明論考や講演集などに教えられる事が多かった。

文明論、文明批評というのは、聞き手に敬遠されることが多い。
へばりついている、しがみついている現実とはかけ離れているから実感がわかない。
それが分かったところで自分ではどうして良いのやら分からない。
文豪、国民作家として尊敬される漱石だが、この面では当時としては”進みすぎていた”ほうではないのだろうか。懸命に西欧の近代を「坂の上の雲」として追いかけていた時代だ。
漱石の文明論を聞く人は頭がねじれる感じがしていたであろう。

(そういえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』を書くとき、漱石をかすめていったが、漱石の文明論をどのように思っていたのだろう?確かそのあたりに言及したくだりはなかったようだったが…)

“余裕派”とは、当時の自然主義文学者や浪漫派文学者が、漱石を揶揄して名付けたあだ名だったと記憶している。漱石は○○主義でもなく、○○派でもなく、漱石は漱石だった。そこのところが○○主義、○○派の人たちは気に食わなかったようだが、バカバカしい名だ。名付け由来のうんちくも知らぬではないが当を得ているとは思えない。明治の「近代人」として漱石ほど余裕が無かった人はいないはずだ。「近代」に合った新たな書き言葉を創出しつつ、大車輪で小説に立ち向かっていた。

汲々とへばりつく姿を吐き出すような言葉で作品にする。何ものかに傾倒耽溺する姿、心情を書き連ねるのも文学だ。しかし自分たちが乗る事になった汽車の、路面電車の、あるいは自動車のある社会が、人間に何をもたらすのか。新しい社会となって旧社会の道徳律が壊れた後、人は何を持って生きるべきなのか。

西欧文明は単に道具として進んでいるものが入ってきただけではない。文明を動かしている宗教、哲学、思想もドッカ〜ンと入ってくる。人々の”生”はどうなるのか。ドッカ〜ンは西を掠め、東を侵し、ついに眠れるアジアを収め、一神教世界観で世界を浸した。
漱石は「浸されつつある時代」そのものに対峙し、苦悩する。そして「近代作家」として後世に多くの道しるべを残した。

「このへばりついている”私”とは一体何なんでしょうか? へばりついていることにそんなに意味があるんでしょうか? そもそも何でこんな境遇になったのでしょうか?」
答えを探して、その道しるべをたずねる人が多くなったということではないのか。

漱石もドストエフスキーも、若い頃に無我夢中で読みふけった”山”だ。
また、そろそろ分け入り登ってみたくもあるのだが、今は遠くから望むその山の大きな姿になんだか気後れしている。



passenger
作品『降りることはかなわず』陶、焼き閉め




| 風景の行方 | 18:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
かの地も、この地も武蔵国のうち
kamosu

東京国立博物館での阿修羅展がすごい人気らしい。
『興福寺ではケースの中に入れられているが、ここではガラス越しでなく見られるので非常にいい』
こんなコメントをどこかで読んだ。
…??
ケースの中に入っていたかな〜??
確か昔は入っていなかったような気もするが、三十年も前の記憶だからおぼつかない。
真夏の奈良を汗をふきふき歩き回り、ひんやりした寺の堂内で、深いため息をつきながら見た記憶だけが鮮やかに思い出される。

あの阿修羅像は乾漆でできているし、細い腕が長くて数も多いので、運ぶのは大変だ。
運搬料もかなり高額だっただろうから、十万人単位の観客動員に関係者の方々は安堵していることだろう。
いや、おつりのほうが大きくて笑いが止まらないというほうが当たっているかも知れない。
三十年ぶりの古い友に会いに行くように、上野に行く気もなくはないが、
やはり奈良の風景の中で再会したいので、行かない事にする。
次の「奈良のイケメン」との再会が、たとえガラス越しであっても仕方ない。

人混みはかなり苦手なので、連休中に出かける事は滅多に無い。
阿修羅展に行かないもうひとつの理由だ。
この連休中もほとんど家に居て作品、本、テレビと向き合っていた。
ただ運動がてら近所はちょくちょく散歩した。
中氷川神社に行ってみた。

一年ほど前、飯能にある郷土資料館で、模型でできた遺跡地図を見た。
その模型地図の範囲は、飯能ばかりでなくその周辺まで含まれていて、我が家の周囲も入っていた。
「縄文」のボタンを押すと、縄文遺跡の場所の豆電球がつくという、定番のやつだ。
土地勘の働く、自宅の近所に注目しながらボタンを押してみた。

古代からの神社として、「中氷川神社」の表示がでた。
農道を広くしたような、やたら車がスピードを上げて行き交う県道の脇に、石の鳥居が立っている。あの神社は、いにしえからのものだったんだ。

神社の前に立つ。
鳥居が県道に面してやや窮屈に立っているが、そちらが本参道とのことだった。
おそらく県道がつくられるとき、参道を容赦なく横切ったのだろう、本来の参道はもっと長かったに違いない。

境内に入り、由来書を読む。境内には他に誰もいない。

『創建ー崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く……』
崇神天皇とは、実在したのではないかと言われている第10代の天皇。
在位が紀元前97年から紀元前27年という。その御代に造られた神社というのだから相当古い。

『御祭神ー素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちむちのみこと)』
なるほどスサノオを祭っているんだ…

『社殿ー後鳥羽上皇の御字に…
    山口領主高治が…
    昭和六年から…
    御本殿は出雲大社造(心の御柱二十五尺)、古御本殿は元禄二年造立の春日造鱗葺社殿』
エ、エ!!本殿が大社造(たいしゃづくり)??

別に神社巡りが趣味ではないので、そんなに多くの神社に行った訳ではないが、
出雲地域以外で大社造の神社を見た事が無い。
出雲からとんでもなく離れたこの地域に、なぜ大社造の神社があるのだろう??
とにかく本殿を見てみることにして、階段をかけ上った。

上には拝殿があり、その横を回り込み、本殿の斜め前に立つ。たしかに大社造だ。
屋根は、檜皮ではなく銅板葺きだが、千木(ちぎ)も鰹木(かつおぎ)もある。
高床の本殿に入るために急な階段がある。本殿の平面は正方形で、建物の周りをぐるりと回廊がついている。本殿は山を背負って立ち、前には拝殿がある。出雲のおおやしろと同じだ。
「なぜここに…」
しばし不思議の感にうたれていた。

拝殿前に戻り、上ってきた階段から眼前の風景を見る。
小高いので見晴らしはいい。この感じ、このロケートをどこかで記憶した覚えがある。
拝殿を背に、右に向かうと「和魂宮」という建物があり、通り過ぎて坂道を降りていくと、拝殿前の階段下にでる。「かもす」に似ている。

昨年夏、出雲大社の特別拝観を見たあと、古代出雲歴史博物館や荒神谷遺跡をめぐりつつ、レンタカーで松江へと向かった。++2008年8月稿「夜明け前の境内を急いだー出雲のおおやしろ」
この短い旅は、まず出雲大社を再び訪れる事、そして松江の神魂(かもす)神社に行くことにしていた。
神魂神社の本殿は現存する最古の大社造だと聞いていたからだ。出雲のおおやしろは1744年の再建築。一方、神魂神社の本殿は1583年の再建築で160年ほど古く、その分いにしえの姿に近い。

車にはナビがついているのだが、使い方が良く分からない。来る前にネットで調べたおおまかな地図を頼りに車を走らせ、幾度か近くを行ったり来たりしながら探し当てた。宍道湖からそう遠くない、小高い丘にあった。

ゆるやかな坂道の参道をのぼっていき、急勾配の石の階段の上に拝殿、そして本殿があった。
たしかに大社の本殿に比べると、大きさは小振り…高さが半分ながら、かたちは骨太な太古の趣を感じさせる。本殿も感動的ではあったが、何より神社全体の醸し出す雰囲気が、いにしえよりの聖域そのものであることを物語っている。詳しく調べてはいないが、おそらく創建当初から大規模な土木工事はなされずに今日に至っているに違いない。

その「かもす」に、この「中氷川神社」が似ている。
この所沢という地は、明治時代に陸軍が日本初の飛行場をつくったというくらいの話しか無く、主に戦後に宅地として開拓開発されたところだ。歴史時間の煮詰まりを感じさせるようなところはほとんどない。釈然としない気持ちで、再び由来書の前に立って、それを眺めていた。

そこに運良く、宮司さんと思われる方が通りかかられた。
人気の無い境内で、中年男が長い時間何をしているのかといぶかられたのかも知れない。
その方に、疑問を尋ねてみた。

以下は、そのお話----
本殿は、昭和2年に、その時の宮司さんが大奔走し、国の役所などから何とか許可を得て、大社造の本殿を建てる許可を得て建てることができました。終戦までは自由に本殿などは建替える事ができずに国の許しが必要だったのです。実は江戸時代も幕府の許可が必要で、それはかなり厳しいものだったようです。

大社造の本殿というのはかなり珍しく、その時の宮司さんが出雲などに出向いて研究されたそうです。きっと神魂神社にも行かれたことでしょう。この一帯は古代に「出雲族」が多く住んだところで、その近くには「渡来系」の人々の集落も多かったらしいです。出雲族と渡来系は共に鉄器生産で連携があったようで近くに住んだか、あるいは国の命でそのように住まわされたのでしょう。

ここには、昭和四年に近くの山口貯水池をつくる際に湖底に埋もれた旧勝楽寺村にあった七社神社を合祀しています。旧勝楽寺村とは朝鮮半島より日本に渡来した百済人、高麗人の居住した地と伝えられいる村です。
----おおよそ、こんなお話だった。

想像だが、創建時この神社の本殿は大社造だったであろう。昭和2年の建替え時の宮司さんは、その歴史をひも解かれて、復興すべく奔走されたのであろう。戦前はどの役所が、神社の立て替えなどを管轄していたのかは、これから調べるとして、長く国によって宗教はコントロールされてきたことを物語るエピソードだ。大和朝廷以来、出雲族に気兼ねをし出雲族を恐れてきたことだけは確かなようだ。それが形式上とはいえ20世紀まで続いていたとは、気が遠くなる。

話を聞きながら、古代の風景がパノラマのように広がるのを感じた。
同時に、自身の”近視眼脳みそ”を恥じた。
歴史を今の地理感覚で計っては駄目と、常々感じているのに、ついつい「いま」を基準に物事を考えてしまう。

ここから北西へ向かえば、日高というところで、高麗神社がある。
一帯は高麗郷といい、むかし渡来系の人々の里であった。
高麗神社は、この里の長でもあった高句麗から渡来した高麗王若光を祭っている。
高麗の先は霊地秩父だ。

反対に、南東に下ると府中だ。武蔵国の国府が置かれた地だ。
周辺はいまだに武蔵を冠した地名が多く残る地域だ。
府中は、多摩川に沿うようにあり、多摩川は渡来系と縁の深い川であることは良く知られている。
府中には大国魂神社があり、大国魂大神が祭られている。
大国魂は出雲大社の御祭神・大国主の別名であり、大国主はスサノオの子(もしくは子孫)である。

20世紀の渡来系であるぼんやり頭の筆者は、生まれは山梨だが、生後何ヶ月かで東京に、以来多摩川の丸子橋付近で育った。原風景はと自問してみても多摩川の風景しか浮かばない。長じて家族を持つ頃にバブルがやってきて、その波に押し流されるように、住み慣れた城南を離れ、新興住宅地所沢にやってきた。

縁もゆかりも無いところにやって来たと思っていたが、近視眼鏡を外してみれば、かの地も、この地も武蔵国のうち、まんざら縁がなくもなかったということのようだ。

kamosu4

※写真は二枚とも島根県松江市にある神魂神社





| 風景の行方 | 13:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
気づくと”森”の中に立っていた
morinonaka


今年もソメイヨシノは見事に咲いていた。
幾度も花の下を通り、遠目にも見ていたが、足を止めることもなかった。
花見に行きたいね、と話題にも上ったが、結局行かずに終わった。
花咲く季節だったが、気分は深い森の中に入り込んでいた。

深い森とは、『スペインを追われたユダヤ人』という本だ。
歴史書、思想書でもあり、そしてすぐれた紀行文学だ。
夜明け前の「近代」、大航海時代のイベリア半島を知ろうと読み始めたのだが、
著者に導かれるまま“旅”に同行し、気づくと”森”の中に立っていた。

見知った街を歩くとき、通る道、使う道は結局いつも似たり寄ったりだ。
そんな道のイメージが、その街の印象だったりする。
そういう印象というのは、固定化され、自分の中での常識となる。
自分が得た知識や情報というのも、頭の中で似たような処理をされるようだ。
イメージが与えられ、常識として定着する。

通いなれた道順、何かのアクシデントでもないかぎり、いつものコースから外れる事はない。そういう意味では、この本はアクシデントだ。
誰かによって造られた表通りではなく、歴史の裏通り、いや裏本通とも呼べる道があることを教えてくれている。

1492年、スペイン国王夫妻が、イスラム支配の下で数百年間平和に住んでいた数十万ユダヤ人の追放を決定する。このあとの、追われての移住、追い込まれての改宗→隠れユダヤ、仕込まれた反ユダヤ人暴動、異端審問所という弾圧。それらの痕跡をスペイン各地を訪ねながら、数々のエピソードを織り交ぜて著したものだ。名著だ。書評、紹介も多いので、概略は避けよう。

著者・小岸 昭氏の案内で、鬱蒼とした裏本通をよどみなく進みながらも、ところどころ木漏れ日の下でなじみの人物と出会ったり、見かけたりする。「なるほど、ここでね」とか、「そういう風につながるのか」とか、「おや、こんなところに」という人たちなどだ。

登場は全然意外ではないが、知ってみると驚いたのが、コロンブス(1451年生まれ)だ。
母方の実家がユダヤ系だったらしい。スペインばかりかヨーロッパ全域に広がっていくユダヤ迫害の暗雲に強い不安を抱いていたに違いなく、それが航海へのバネとなったのではないか。
新大陸への出航がユダヤ人追放令発効17日前というのがすごい。そしてその航海のパトロンが、その追放令を出した張本人イサベル女王というのだから、何ともスリリングな話だ。
いままでショーケース入りのコロンブスにはさして関心は無かったが、「後書きにかえて」にもあるように、『コロンブス』岩波新書ーをきちんと読んでみなければならない。

エル・グレコ(1541年クレタ島生まれ)は、1577年36歳のときにスペイン宮廷画家となり、たくさんの宗教画、肖像画描いたが、その中に『大審問官ゲバラの像』があった。大審問官とは異端審問の最高権威者で、多くの異教徒を火刑に処した。一見”忠実な”肖像なのだが、真の芸術家は外見の底に横たわる見えざる姿を見すかしてしまう”看破力”を持つものだ。後輩にあたるベラスケス(1599年生まれ)、ゴヤ(1746年生まれ)なども、この力を持ちすぎるほど持っていた。

この絵のできばえを大審問官本人やその取り巻きは、どう感じたのだろうか。「素晴らしい、そっくりだ!」「威厳を感じます」という賛辞だったのだろうか、それとも唇では賛辞を語りつつ、腹では「似ている事は似ているが、見ようによっては悪魔のようにも…」などとつぶやいていたのだろうか。

大審問官ゲバラの像に込められた”看破力”は二百数十年の時を跳躍し、ロシアで火の手をあげた。
ドストエフスキー(1821年モスクワ生まれ)は、あの『カラマーゾフの兄弟』-「大審問官」の稿を書くにあたり、この絵からインスピレーションを受けていたに違いないという。鋭い指摘だ。
「異端審問」という国民均一化=排除=殺戮マシーンに戦慄しつつ、無言で審問官を画とした画家。ロシアの近代化に直面し、あえて火刑荒れ狂う史実の都市を小説とし、思想を問うた文学者は、あの絵を凝視したはずだ。

ゴヤは、エル・グレコから2世紀遅く生まれているが、異端審問はまだ続いていた。ゴヤは『カルロス四世の家族肖像画』で分かるように、やはり同じ”力”を持っていた。それは異端審問も扱った風刺銅版画集『ロス・カプリチョス』や『黒い絵』につながるものだ。最近封切られた映画『宮廷画家ゴヤは見た』は、その裏打ちから来ている。

スペインの異端審問は1808年まで続けられたというから、何と300年に及び続けられたことになるわけだ。エル・グレコもゴヤも異端容疑をかけられたそうだ。”力”を持つものは警戒され“排除対象”にされたのだ。「異端に同情するものは異端」「魔女に同情する奴は魔女」「赤をかばうやつは赤」…気に食わない奴を消すにはもってこいのシステムだった。ピカソもナチスから「異端」と見なされていた。
異端審問廃止決定をしたのがナポレオン支配というのだから、「近代」という激流の大きな渦がここに色濃くあらわれている。

追放、弾圧はまるで絵に描いたように、イベリア半島の先端リスボンからユダヤ人達を大西洋に追いつめた。その海に飛び込み北に向かった人々は、オランダ(ネーデルランド)・アムステルダムにたどり着いた。17世紀初頭には8000人ほどの共同体が出来るほどだったらしい。その村というか街に画家レンブラント(1606年生まれ)は、わざわざ引っ越してきて、そこに住む人々の習俗を描き「旧約の世界に通じる異形のオブジェとして掘り起こす」ことに興じていたようなのだ。

この本にはそうだとは書かれていないが、松岡正剛氏の『千夜千冊』を見てみると、レンブラントもスペイン系ユダヤの直系(マラーノ)であったとある。もしかするとレンブラントの一族は、15世紀末の追放令後、比較的早い時期に海を渡った人々だったのかも知れない。早くにスペイン・ポルトガルから離れたので、レンブラントの世代には、かなりネーデルランド化していて、反対にユダヤの習俗が懐かしく、そして新鮮に見えたのではないだろうか。記憶は50年もあれば充分半減するものだ。版画で多く残しているところをみると、一般に普及させたいという意図も感じる。

いずれにせよ、興の趣くままユダヤの習俗を活写できる姿に、当時のネーデルランドの自由な雰囲気が見てとれる。レンブラントは17世紀の人だが、工房経営にしても「ビジネス」的感覚を感じさせるし、「自分大好き」なのか自画像をやけにたくさん描いたり、愛人から訴えられたりと、何とも「近代」の匂いが濃い人だ。レンブラントの近所にスピノザ(1632年生まれ)も住んでいた。レンブラントはスピノザより三十歳ほど年上で、父親と同世代だ。きっと知り合いであったろう。そして、そのアムステルダムから遠くないデルフトという街にはフェルメールがいたのだが、スピノザと同い年だというのだから何とも興味深い。

その頃のネーデルランドに逃げてきたのはスペイン系ユダヤ人ばかりではなかったようだ。当時の国家や教会から目の敵にされていたデカルト(1596年生まれ)も避難していた。デカルトはエンデハーストという小さな村で『哲学原理』(1644年)を書き上げ、そのすぐ近くの村レインスプルツでスピノザが『デカルトの哲学原理』(1663年)を書いたという。

深い森の中の道を歩いてきたら、17世紀オランダの二つの小さな村に着いた。
二つの村がオランダのどの辺りなのか、少し調べてみたが分からなかった。
どこだか分からないが、この村辺りから…
コギト・エルゴ・スム cogito, ergo sum まるで呪文のような、この言葉あたりから…
私達の風景を眺めてみたらどんなだろうか…








| 遙か遠くの光景 | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
「虚」と「実」
品川ビル

川崎から恵比寿に電車で向かう。
途中、品川駅を通る。
ちょうど昼時でもあるし、品川で降りて原美術館に行くことにした。

品川の駅前というか、駅横下には『なんつっ亭』というとんこつラーメン店がある。
原美術館の帰りには、いつも立寄り食べていく。
品川=原美術館+なんつっ亭 とセットになっている。

原美術館で何の展示をしていたのか、チェックはしたが忘れてしまっていた。
でも、この美術館の企画は大きな”はずれ”がないので、足が向く事が多い。
それに、この美術館自体の由縁、立地、建物は気分がいいもので、歩いていくだけでも損は無い。

品川は、ここのところ東海道新幹線の新玄関となり、海側には相も変わらずの高層ビルがどんどん建てられて、すっかり、やっぱり、しっかり鉄+ガラス+コンクリート巨壁群のモダン風景(そうそうまだまだ”モダン”の内なんですよ…)となってしまったが、山側には古金色の三菱開東閣が一段高く木々の中に鎮座しているという対照が面白い。

開東閣は三菱の創業者岩崎弥太郎の邸宅であり、原美術館も明治からの実業家原家の邸宅だったものだ。
高輪、白金とつづくこの一体は、江戸時代大名屋敷が並んでいた地で、明治以降の歴史的な建築も数多く残っている。山側には初期資本主義の風景が残り、海側には末期(…おそらく)資本主義の風景が拡がっているという構図だ。

渡辺仁設計の原美術館は初期モダニズム様式と言われているが、その建物の中でコンテンポラリーが展示されるというのも、時の層が感じられていいものだ。コンドル設計の開東閣は現在一般に非公開で三菱の内輪だけで使われているらしいが、有効土地利用などといって地上50階のホテルにしてしまおうなどという声もでてきそうだが、天下の三菱なのだから、東京中央郵便局のような高級トレンドスーツに祖父の草履をはかせるような再建築計画だけは勘弁してほしい。
「古色」というのは時がつくるもので、金ではつくれない。

いつもは帰りに立ち寄る「なんつっ亭」なのだが、朝からたくさん電車に乗って空腹だったので、改札をでるとフラフラと店内に吸い込まれてしまった。
相変わらずラーメンはうまかったのだが、どうも順番を変えたのが良くなかったようだ。
食後は神経がどんよりするようで、美術館に入っても頭がどんよりしている。
ビールもコーヒーも、そしてアートもやや空腹が丁度いいようだ。

ジム・ランビー というアーティスト
アンノウン・プレジャーズ というタイトルの展覧会
アンノウン・プレジャーズとは”未知の快楽”という意味だそうだ。
ところが、どうもどんより頭には、プレジャーズがいっこうにやってこない。
次に行くときには正しい順序で行こう。

どんより頭も恵比寿に着く頃には、すっかり晴れたようだった。
東京都写真美術館へ行った。
やなぎみわ ”マイ・グランドマザーズ”では間違いなくプレジャーズがやってきた。
「虚」と「実」が面白い。
そして「物語性」が面白い。
正順路で一度見て回ると逆順でまた見て回り、そしてひとつひとつを丹念に見た。

作家はモデルと話し合い、設定を決め、メークし、場所を選び、道具立てを準備し撮影している。実際に実物を写している。ところが真実ではない。画面に「嘘」がある。
アナログの人や景色を撮っているのだが、巧妙にデジタルで処理してあり虚を感じさせる。
「実」を撮って「虚」とさせるところが面白く、そしてその「虚」によって、「実」をより強く実感してしまう。

だいぶ前に”エレベーター・ガール”という作品も見たことがあるが、ガール達のありえない並びよう=「虚」が、女性のこの社会での扱われ方=「実」を、痛烈に、鮮明にそして不思議な甘美さで現していた。
この作家はフワリと立ち位置を変えているな。
いや、価値の軸を違うところに持っているな、という感じを持った。

先月、《美術は「在る」ことにこだわって数世紀を経た》と書いたが、
美術は、あるいは美術もと書くべきかもしれないが、「存在」ということに長くドロドロになって拘ってきたと直感的に思っている。
この作家は、その「虚」をもって、もうそのドロドロには軸を置いていないと感じさせるのだ。

私は、「存在」それは「近代」とも深いところでつながっていると疑っている。
同様に「物語性」は「近代」から疎まれ、「存在」から遠ざけられてきたとも思っている。
この作家の語らんとする「物語」自体にさほどの興味は無い。
それは私が「男」だからかもしれないし、「近代人」だからかもしれない。
おそらくその両方だろう。
ただ、この作家が邪険にされてきた「物語性」を何事もなかったようにスルリと扱い、観るものを楽しませてくれているのは頼もしい。

東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイスという複合ビル内にある。
ここは昔、サッポロビールの工場だったところだ。鉄道を使って材料の搬入やビールの出荷をしていた。貨物列車がたくさん並んでいたのを、線路の向こう側からよく見た。
悪くない風景だった。


ビル夜





| 風景の行方 | 16:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
「去り行く風景」死と生
去り行く風景

もう三十年も車の運転をしている。
こんな姿を車の運転中に時折見かけることがある。
車の後部座席に乗っている子供達が、進む方向とは逆向きに座り、リア・ウィンドウから外を眺めている。後ろを走る車に手を振ったりする。
彼らが見ている風景とは「去り行く風景」だ。
視界の脇に現れたビル、電柱、人、車…風景がみるみる遠ざかり、やがて見えなくなる。

「去り行く風景」は、シーンとして映画やドラマの中でも使われたりする。
列車の窓際に座り、車窓外を眺める役者。
列車が発車しスピードを増すとともに、街の景色が段々と小さくなっていく。
役者は小さくなっていく街を眺めながら、その街で起きたことなどを回想するーといった演技をする。
「去り行く風景」は過去そのものだ。

今月初めに、福島まで車窓の人となったが、新幹線なので「去り行く風景」を楽しむゆとりもなく、おまけに滞在4時間という慌ただしいものだった。
福島には、県立美術館で展示している旧知の美術家・金暎淑(きむ・よんす≒よんすぎ)の作品を見に行った。
知己の展示とはいえ福島は近くはない。その作品タイトルに惹かれ行ってみる事にした。

『毎日死んでいく私のためのお葬式』と題されたその作品は、100枚の写真によるインスタレーションだ。面白く、そして考えさせられるものだった。
作品は、ある日の作家自身の葬式用ポートレートから始まる。ある日の「死」のための写真だ。
次の日は前日撮ったポートレートを胸に持ち、その日のポートレートを撮る。
その次の日は、また前日撮ったポートレートを胸に…… 。
一日、一枚。この繰り返しを100日間行い、100枚の写真としたものだ。

例えば、7月31日の写真には、7月30日に撮った写真を持った「私」が写っていて、
その30日の写真には、29日に撮った写真を持った「私」が写っていて、
その29日の写真には、28日に撮った写真を持った「私」が写っていて……
理屈で作品を解釈すると、最後の100枚目、つまり11月2日版には、1枚目から99枚目までの写真が写り込むということになるが、実際にそんなことはありえない。一目で確認できるのはせいぜい5、6日分だが、それで十分だ。「去り行く風景」のように、またたく間に風景は小さくなっていき見えなくなってしまうように、5、6日前のものは見えなくなってしまう。

彼女は、始まりを自身の誕生日である2008年7月26日を選んでいたが、そこに深い意味は無さそうに思えた。それは最後の日であった11月2日にも、100日という期間も同様だった。任意の「ある日」から、「ある日」までと受け取るべきことだろう。特定の誰かではなく、人は誰も、いや生きとし生けるものはすべて、「ある日」を迎え、そしてその「ある日」を見送り、また「ある日」を迎える。表現は作家特定だが、意味は普遍的だ。

昨日の「死」が、今日の「生」となる。
「死」がなければ「生」もない。
「毎日死んでいく私」は「毎日生きていく私」という意味だ。
「死」とは去っていくことで、「生」とは、今ここにいる、ここにあるということだ。
無心に「去り行く風景」を見る後部座席の子供達、あれにはそんな楽しみがあったのか…

この展示は、他に宇田義久、KOSUGE 1-16 という出品者と共に『福島の新世代2009』という福島県立美術館の企画展として行われたものだ。三つの展示はそれぞれが表現形式の全く違ったものであったが、〈「見せる」もの〉=現代美術という面においては、同じ次元にあるものであった。
三者の〈「見せる」もの〉をそれぞれに楽しみ、ぼんやりした頭で展示場から出た。

さて…… 
常設展示でもと二階の会場にノロノロ上がっていった。
暗い会場に入ると、何かがこちらを見ているような気配を感じ、緊張した。
『居るな…』
「居る」とは、「在る」と同じだ。
場内には十点ほどの彫刻が展示してあった。
その彫刻達の存在感が、こちらを見ていると感じさせたのだった。

中でもぼんやり頭を正気に戻してくれたのは、ねずみを写実的に彫った小さな彫刻作品だった。
鳥肌が立った。
『ただ者じゃないな…』
まるで剣豪のような仕事だ。
キャプションを覗き作者を確認した。
「佐藤朝山(玄々)」

福島に〈「見せる」もの〉を見に来たが、〈「在る」もの〉とも出会った。
「居る」「在る」と感じさせるものと出会うのは、ほんとうに久々だ。
つい、ほんのちょっと前まで、美術は「在る」ことに拘って数世紀を経た。
ダ・ヴィンチは『モナリザ』をそこに「在る」「居る」ように描いた。
「まします」から「在る」への移行だった。
「在る」に迫る力、佐藤朝山(玄々)の力量は大変なものだ。

名前は以前から知っていた。
少し前にも平櫛田中美術館で作品のひとつ『聖徳太子像』を見ている。
なぜ、こんなに凄い彫刻家だと分からずにいたのだろう。
帰宅してネットで調べてみて、合点がいった。
往時から天才と呼ばれていたそうだが、代表的な作品の大半が終戦間際の大空襲によって失われたということだ。本当に残念だ。

「去り行く風景」の中から、いまに向かって光を投げかける〈「まします」や「在る」もの〉達、そしてそれらばかりではなく、地上のすべてを焼き尽くし焦土とできるウルトラな力を持ってしまった『現代』
甲斐性もないくせに、今日もぐずぐずとあれこれ思ってしまう。


福島県美
福島県立美術館
http://www.art-museum.fks.ed.jp/menu_j.html







| 風景の行方 | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
何て世界は素晴らしいのだ”
newyork

夜寝る前に必ず歯磨きをするが、ついテレビの前でしてしまう。
右手に歯ブラシ、左手にリモコンをもち、チャンネルを変えつつ歯を磨く。
どこもCMになると、泡だらけになった口をすすぎに行き、歯ブラシを取り替えて、
また、テレビの前に座り、磨きつつ見る。

行儀が悪いのだが、これも「テレビッ子」第1世代の宿命と家人にはあきらめてもらっている。ものごころついた頃には、もうテレビがあり、小学校の高学年の頃にはカラー放送されていた。テレビで育ったというくらい、子供のころはよく見ていた。
日曜は、午後は東映の時代劇、夜は日曜洋画劇場というのが定番だった。
十代後半からは、あまり見なくなったが、その後も必須ツールである。

ここのところオバマ新大統領の顔を見つつ、歯を磨く事が多くなった。
オバマ大統領就任は、アメリカ国内ばかりか世界を熱く沸き立たせたようだ。
演説がうまい。聞く人に「高揚」感を与えつつ、「説諭」もしている。
勝利演説、就任演説ともにテレビで見たが、アメリカ大統領の演説をちゃんと聴いたのは始めてだった。

映し出されたオバマ大統領の顔を見ながら、あるテレビのドキュメンタリー番組を思い出した。アメリカのある都市の黒人居住区=ゲットーに生まれ育った兄と弟の話だ。
見始めたときは番組はもう始まっていた。
冒頭を見逃したので、その兄弟が育ったゲットーがどこの都市で、何人兄弟だったのかと言った事は分からない。

東北アジアに生まれ育ったものには、ゲットーという語に何の記憶も感慨もない。
ゲットーとは本来ユダヤ人強制居住区を指す言葉だ。ヨーロッパのほとんどの国にあり、16世紀から19世紀初頭までユダヤ人を強制的に閉じ込めていた。住み分けー居住区といったやんわりしたものではない。石壁で囲い、外出は許可が必要だった。
映画『戦場のピアニスト』の中で、ナチにより再びゲットーが作られる場面がでてくる。街区をそっくり刑務所、収容所にするのだ。映画の中でゲットーの中の門が閉まるシーンが出てくるが、まるで家畜の群れのように人々が扱われる。強い憤りで吐き気がした。

ユダヤ人ゲットーと黒人ゲットー、一見、縁が薄いようにも思えるが、関係ないわけがないだろう。黒人ゲットーは奴隷貿易の産物だ。
どちらも16世紀から19世紀のヨーロッパが主役だ。ルネッサンス、宗教改革、大航海時代、奴隷貿易、価格革命、世界の一体化…近代の始まりだ。

ともかく、アメリカにある黒人居住区ゲットー、石壁まではないだろうが、それに匹敵するくらいのバリアがあったし、21世紀の現在もまだ存在し続けている。
もちろんゲットーだけではなく、その外でも人種分離政策はとられていた。
就任演説の中にでてくる、「60年前には食堂で食事をすることさえ許されなかった」とは、そのことだ。差別、疎外、排除の結果としてのゲットーでは、構造的にほとんどの人々は貧困となる。

兄弟は当然のように極貧家庭に生まれ育つ。
それでも利発で成績の良かった兄は、奨学金を得て、大学に進学、知識人として社会的な成功を収める。
一方、弟はゲットーにいて、黒人解放運動へとのめり込んでいくが、為す事すべてうまくいかずに、やがて犯罪に走り逮捕され、刑務所に入れられる事となる。
兄と弟は、社会的な立場が違いすぎ、相互に反発しあっていたが、刑務所に入れられた事をきっかけに対話を始める。そして対話により、兄は認めようとしていなかった黒人としての自覚、視座を取り戻していく。

フィルムの後半、兄が自分の息子を連れ、自身のルーツをたどる旅が印象深い。
アフリカから奴隷として売られてきた曾祖父。その売買記録を購買先の地方役場で探し出す。記録簿には、名前に続いて、どこの農場にいくらで売られたかが書かれてある。
ウィリアム・スミス ○○農場 10ドル
こんな感じだ。
名前も値段も番組内容とは全く関係ないが、詳細は忘れてしまったので、
実感が伝わるようにあえて作って書いてみた。

奴隷売買、人身売買については歴史として学んで知っていたが、リアルではなかった。しかし、アメリカの地方役場の古い書庫の中に、いまだに保管されているその書類は、まるで腹わたに触れるように歴史の「現実」を照射していた。
テレビ画面の向こうにいる兄と弟は、私たちと同時代人だ。
会いにいけば、会う事ができる。
そのナマな「現実」は、私たちの現実でもある。

歴史は「叙述」され、「説話」化される。
その「叙述」「説話」に、「近代への序章、大航海時代はアフリカ、アジア、中南米の数十、数百万の悲鳴、慟哭、屍の上に成り立った。」と書き足しておこう。
そして、それらのすべてが私たち自身の「いま」をかたち作ってもいるということを。
人の歴史は近代、現代とめまぐるしく歩みを進めてきたが、「暴力」という深い河は何も変わらずに黒く広く滔々と流れている。

子供の頃、もちろん国産のテレビ番組はたくさん見た。
『月光仮面』『てなもんや三度笠』『ウルトラQ』…など記憶に残っている。
アメリカのものも、数多く見た。
『ララミー牧場』『コンバット』『奥様は魔女』…などなど
洋画も邦画も数えきれぬほどテレビで見た。

フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、サミー・デービスJrなどが出ていたハリウッド映画もよく見た。
そんな中でもジャズマンのルイ・アームストロングが役柄もステージミュージシャンとして登場していたのがあって、歌も風貌も大好きだった。
「この素晴らしき世界」を大ヒットさせたサッチモ=ルイ・アームストロング。
彼も人種差別に苦しんだ一人だった。








| 映像の風景 | 13:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
どこかの「国民」にならざるをえない
kyonju

2002年5月、韓国の慶州に立ち寄った。
前日までの数日間光州市にいて、光州ビエンナーレの展示確認とシンポジウム出席を終え、釜山に移動した。翌朝慶州に向かい、夕刻にはソウル行きのバスに乗るというほんの短い滞在だった。

慶州は古くは金城(クムソン)といい、古代王国新羅の首都であった地だ。歴史遺産が多く、日本の奈良のようなところと言えるだろう。実際に奈良と高句麗、百済、新羅の三国は、大和政権の成立から平城京(奈良)にいたるまでかなり濃密な関係だった。

新羅は朝鮮語読みではシルラと発音する。ルは舌を巻いた発音で母音はない。
新羅の旧名は徐羅伐(ソラボル)もしくは斯盧国(シロ、サロ)で、当時最も栄えていた地域名だ。金城(クムソン)とはおそらく中国との関係が濃くなってからの後付けであろう。
ソラボル、サロ、シロとも表されていたシラ、そのシラに漢字をあてがい新羅と表記したようだ。新羅=シルラとは、実に漢字臭くない名前だ。当て字っぽい。反対に高句麗はいかにも漢字臭い。

三国はその後、新羅によって統一され、のちに高麗、朝鮮となっていくので、いまの一般的な歴史認識は逆算方式で、「同一民族」だということを基調としていて、「国」の歴史としている。ほんとうは当時の段階では「朝鮮半島地域史」というほうが正しいだろう。

ややこしいことを言うようだが、新羅などの古代王国は朝鮮史、韓国史のうちというくくり方は、「国民国家」の世ならではの方便であり、往事に立つならば新羅は新羅であり、高句麗は高句麗なのだが、それを現代中国、韓国双方で「高句麗は我が国の歴史」と引っ張り合うのはいかがなものだろうか。ましてや日本のある大学の講義中に「高句麗は韓国=朝鮮とは言えない」という先生もいたりして、本当にあきれてしまう。

いわゆる高句麗、百済、新羅の三国時代には、実はもうひとつ伽耶という小国家群が含まれる。南部を流れる洛東江流域にあった。小国家というのがどの程度の規模を指すのか分からないが、複数部族が合併してできた「支配地」と考えるのが妥当だろう。高句麗、百済、新羅もはじまりの頃はそのようなものだったろう。

その一帯に多くの部族が集落を持ち居住していたが、中でもある地域がとても栄え、他を圧迫、やがて支配下に置く。雪だるまのように段々と大きくなり、「くに」と呼べるような大きさにまでなった…ということだ。それは「くに」達の歴史であって、近代国家の歴史認識で量るものではなかろう。

囲いの中に棲んで飼いならされてくると、方便、常識以外は理解不能なものになるようだ。そのことを痛快に打破してくれる一冊の本と出会った。
『ローマ文化王国ー新羅』という本だ。
由水常雄/著 新潮社/発行

ユーラシア大陸には古くから東西を横断するステップ・ルート(草原の道)と呼ばれているものがある。一部現在のシベリア鉄道もそこを走っている。約8000キロだそうだが、日本の長さが約3000キロなので、途方もない距離とも感じない。ハンガリーから朝鮮半島にいたる道だ。この道を通り、黒海辺りのローマ文化が直接的に新羅にもたらされというものだ。

「常識」的には、四大文明の中国というものが近くにあり、三国ともにその「衛星」だったと語られてきたが、実は新羅というのは、高句麗、百済とは違い、中国文化は受けずにローマ文化を受容してきた国であったというのが、この本の趣旨だ。

本を購入してから、もうだいぶ経つがなかなかすべてを読み切れない。
冒頭から読んでいたが断念し、終章を読み、あとは気になるところから拾い読みをしている。内容は衝撃でさえあり、抜群に面白いのだが、読むのに時間がかかっている。それは著者が持論を好き勝手に語っている本ではないからだ。まるで警察の「鑑識報告」みたいに「物証」をたくさんの図版とともに、丁寧に説明しているせいだ。

「物証」とは1973年から韓国政府が行った慶州での大発掘の成果をさす。天馬塚、味鄒王陵、皇南洞墳から発掘された冠などの装身具、馬具、器、トンボ玉、ガラス杯、リュトンなどをひとつひとつローマ文化や中国文化と比較し、総合で新羅がローマ文化国であったことを証明している。

私の父祖の地は現在の韓国慶尚南道の昌寧というところで、伽耶であったところだ。盧という姓は大元(おおもと)は中国で生まれ、そのうちの子孫のひとりが昌寧にやってきたという。伽耶だったころにやってきたのか、統一新羅のころか、それ以降なのかは良く分からない。いずれにせよ、ユーラシアは地続きで移動はむずかしいものではなく、遠い昔に枝分かれした血縁がハンガリーあたりにいたとしても何の不思議でもない。

人の移動が難しくなったのは、交通手段も発達した近代になってからだ。国境が決められ、旅券が必要となった。旅券は国交があるのみ通用する。人々の旅、移動は国家が決める事となった。
遊牧民クルド人が彼らの「くに」=居住地を失う事になるのは、周辺国の勝手な国境策定のせいだった。また現在のアフリカの窮状は、実情を全く考慮せずに支配国達の駆け引きだけで分割し国境をつくったのが主原因である。近代に移行するための犠牲=生けにえとされたのだ。

18世紀末のフランス革命あたりから生まれてきた「国民国家」という枠、囲い。
それを受け入れざるを得ない時期に生まれたので、致し方ないとあきらめてはいる。
誰もがどこかの「国民」にならざるをえない。
しかし、人の作った物は、やがて使えなくなる時期が必ずくる。
いくつもの嵐が過ぎたあとであることは確かだが、そう遠い未来のことではないだろう。

できれば来年ふたたび慶州を訪れ、今度はゆっくりと巡ってみたいものだ。



silla




| 風景の行方 | 13:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
「自分」って空洞なんだ
jousui


世田谷にある砧公園、数年ぶりに来た。
23区内にある公園の中でも、かなり大きなほうだろう。
子供がまだヨチヨチ歩きだった頃、家族でよく訪れた。あの頃と何も変わっていない。

広い芝生の広場、遠くまで連なる大きな樹木が気持ちいい。
駐車場から落ち葉を踏みしめながら、
ダニ・カラヴァン展を見るため美術館に向かった。

世界のあちらこちらに、環境彫刻作品を「設置」というより「建設」してきたカラヴァンの展覧会をどうやって行うのだろうか。自分なりに展示を予想しつつ期待をもって歩く。
美術作品を見るのに、ある程度歩かなければならないというのは良い事だ。
山手線の駅を降りたら、すぐ目の前が美術館なんていうのは、気持ちをリセットする時間がなくて、作品と出会うのにはかえってマイナスだ。

展示は予想以上でも以下でもなかった。
予想通り、カラヴァンの主作品である各地に建設された環境彫刻作品は映像や模型で紹介されていた。それしか方法はない。
この展覧会のために作られたインスタレーション作品が二つあったが、個性ある世田谷美術館自体のデザインに、あまりにもはまり過ぎていて、際立ってはいなかった。
収穫だったのは、カラヴァンがまだ環境彫刻に乗り出す前の、舞台美術の模型や図面、壁面レリーフが興味深かった。

幾何立方をいくつも組み合わせたような壁面レリーフの作品は、私自身の懐かしいことを思い出させてくれた。
大学を卒業したての頃、とても自由であったが、まだ「何を作るべきか?」ということがまるっきり見えていなかった。周囲は真っ白くぼんやりとしか見えていなかったのだが、その事に自分も気づいてはいなかった。何よりも「自分」が見えていなかった。
それなのに何かを作りたいという衝動だけが身体の中でうずいていて、やみくもに思い浮かんだ順に粘土で作ったり、木を彫ったりしていた。その頃作った木彫のひとつが、カラヴァンの壁面レリーフに似ていた。完成する事無く放棄した。

途中放棄する作品がいくつ続いただろうか…
放り出された作品を前にして「自分とは何なのか?」「人とは何なのか?」「いまここに立っている世界とは何なのか?」そんな問いがふつふつとわき上がってきた。
いくら苛立っても、立ち止まって考えて答えをだせる自信はなかった。
そのうちいつかどこかで確かな”もの”と出会えるだろうと、仕事をし、本を読み、旅をし、展覧会や映画を見、人と交わり、思い、考え、話し…そして作品を作った。それはいまも続いている。

その次の週。
小平市にある平櫛田中美術館に行った。彫刻家ひらくし・でんちゅうの住まいに美術館を建てたもので、旧宅も残されている。
企画展の『仏像インスピレーション』を見るためだ。
サブタイトルはー仏像に魅せられた彫刻家たち 円空、木喰から平櫛田中、荻原守衛、高村光太郎、そして現代彫刻までーというものだ。

住宅街の中にあり、館は小振りだが、内容の濃い素晴らしい展覧会だった。
ロビーには、高村光太郎の『手』、萩原守衛の『文覚』
ただただなつかしい。
展示の冒頭は、明治の彫刻家達が作った仏像が多く並んでいた。
ほとんどが小品なんだが、それがいちいち良い。
こっちが歳をとったのか、沁み入ってくる。
中でも、いままで全く知らなかった大内青圃の仏像に惹かれた。
とても愛らしい。
茶髪でミニスカ制服の女子高生も、きっと、これを見れば
『かわいい〜』の連呼に違いない。
地下の展示室は、戸谷成雄、黒川弘毅、舟越桂、三沢厚彦などの現代彫刻であったが、まったく違和感なくいい流れの中で見れた。

久しぶりに彫刻だけの展覧会を見て、故郷に戻ったようななつかしい気分だったが、目の中が立体でゴロゴロしているような感じになった。
最後に、もう一度、碌山の『文覚』を見て外に出た。
相変わらず確かな存在感だ。巌のようだ。
碌山の頃は、「人は巌」と感じていたのだろうか

玉川上水の土手道を駅に向かって歩いた。
青い花が咲いている。
ついこないだ「人って空洞なんだ」とふと思った

空洞。入り口も、出口もある空洞。
経験、体験、知識、情報が空洞に入り込み、
そして、しばし滞留し、やがて出て行く。

幾年も留まるものもあれば、すぐに出て行くものもある。
吸収され血肉となるものものもあれば、吐き出されるものもある。
空洞の命ともに、そこに生涯居続けるものもある。

空洞内を探して進んで行けば、光り輝く「自分」と出会うのではなく、
空洞そのものが「自分」なのだ。
どんなものを取り入れる入り口を持っているのか、
空洞内は何を歓迎し、何を見過ごすのか、何を拒否するのか、
取り入れたものを、どのようなものにして出せる出口を持っているのか。

色んなものが「自分」という空洞に入ってきては、出て行く。
世界は「自分」の中に入り、そして出て行く。


hitobito

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