行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
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建畠先生の訃報
たてはた
建畠覚造先生が2月半ばに亡くなられたことを、つい先日の新聞記事で知った。
門下ではなかったし、お目にかかったのも数えるほどしかなかったが、個展時にはわざわざおいでいただき恐縮した。自作を語られる時も、私の作品について語られるときも言葉数は少なかったが、静けさの中に揺るぎのない強さが感じられた。妙な言い方だが、「ありがたい」といった感を受ける希有な方だった。心よりご冥福をお祈りいたします。ー画像は『戦後日本のリアリズム』カタログに掲載されている建畠先生の作品写真

彫刻家を志した学生の頃、建畠先生は戦後彫刻界を支えている太い柱のお一人であった。私の世代からすると「師の師」世代であり、直接的ではないがかえって純粋な内容で、彫刻への思い、考え方、作品への向かい方などを学び、自分の真っ白な頭の中に現代彫刻の概念を形成する礎となった。

降り返ってみると、先生の世代の彫刻家は、「哲人」とも呼べる人が多い。おのおの作品スタイルこそ違え、彫刻とは「心」の塊(かたまり)、「精神」の構築物といったことを目指されてきたと思える。学生時代から30年を経た今、そんな実感が湧き上がってくる。

「哲人」彫刻家達は、表現において「饒舌」を嫌い、出来る限り無駄をそぎ落としたものを良しとした。確実に”気風”と呼べる流れをこの風土に作り出していた。気風は次の世代へ、時にその心髄を、時に形骸だけが、影響を及ぼし、多様にそして多数に受け継がれた。加速度のつきだした社会の変容と共に。

大学を卒業する頃は、まだ地鳴りを聞く程度だった”消費社会”は、やがて噴火の如く噴きあげた。あおりは彫刻の世界にも波及した。一般からは縁の遠かった彫刻も、街の中に出始めた。広場や公園、駅前ロータリーに置かれ始め、野外彫刻展も全国各所で行われた。溶岩はやがてバブルとなった。大手デペロッパーも”彫刻設置”に乗り出してきた。この頃に「彫刻公害」などという言葉も現れた。つづく
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