行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
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気づくと”森”の中に立っていた
morinonaka


今年もソメイヨシノは見事に咲いていた。
幾度も花の下を通り、遠目にも見ていたが、足を止めることもなかった。
花見に行きたいね、と話題にも上ったが、結局行かずに終わった。
花咲く季節だったが、気分は深い森の中に入り込んでいた。

深い森とは、『スペインを追われたユダヤ人』という本だ。
歴史書、思想書でもあり、そしてすぐれた紀行文学だ。
夜明け前の「近代」、大航海時代のイベリア半島を知ろうと読み始めたのだが、
著者に導かれるまま“旅”に同行し、気づくと”森”の中に立っていた。

見知った街を歩くとき、通る道、使う道は結局いつも似たり寄ったりだ。
そんな道のイメージが、その街の印象だったりする。
そういう印象というのは、固定化され、自分の中での常識となる。
自分が得た知識や情報というのも、頭の中で似たような処理をされるようだ。
イメージが与えられ、常識として定着する。

通いなれた道順、何かのアクシデントでもないかぎり、いつものコースから外れる事はない。そういう意味では、この本はアクシデントだ。
誰かによって造られた表通りではなく、歴史の裏通り、いや裏本通とも呼べる道があることを教えてくれている。

1492年、スペイン国王夫妻が、イスラム支配の下で数百年間平和に住んでいた数十万ユダヤ人の追放を決定する。このあとの、追われての移住、追い込まれての改宗→隠れユダヤ、仕込まれた反ユダヤ人暴動、異端審問所という弾圧。それらの痕跡をスペイン各地を訪ねながら、数々のエピソードを織り交ぜて著したものだ。名著だ。書評、紹介も多いので、概略は避けよう。

著者・小岸 昭氏の案内で、鬱蒼とした裏本通をよどみなく進みながらも、ところどころ木漏れ日の下でなじみの人物と出会ったり、見かけたりする。「なるほど、ここでね」とか、「そういう風につながるのか」とか、「おや、こんなところに」という人たちなどだ。

登場は全然意外ではないが、知ってみると驚いたのが、コロンブス(1451年生まれ)だ。
母方の実家がユダヤ系だったらしい。スペインばかりかヨーロッパ全域に広がっていくユダヤ迫害の暗雲に強い不安を抱いていたに違いなく、それが航海へのバネとなったのではないか。
新大陸への出航がユダヤ人追放令発効17日前というのがすごい。そしてその航海のパトロンが、その追放令を出した張本人イサベル女王というのだから、何ともスリリングな話だ。
いままでショーケース入りのコロンブスにはさして関心は無かったが、「後書きにかえて」にもあるように、『コロンブス』岩波新書ーをきちんと読んでみなければならない。

エル・グレコ(1541年クレタ島生まれ)は、1577年36歳のときにスペイン宮廷画家となり、たくさんの宗教画、肖像画描いたが、その中に『大審問官ゲバラの像』があった。大審問官とは異端審問の最高権威者で、多くの異教徒を火刑に処した。一見”忠実な”肖像なのだが、真の芸術家は外見の底に横たわる見えざる姿を見すかしてしまう”看破力”を持つものだ。後輩にあたるベラスケス(1599年生まれ)、ゴヤ(1746年生まれ)なども、この力を持ちすぎるほど持っていた。

この絵のできばえを大審問官本人やその取り巻きは、どう感じたのだろうか。「素晴らしい、そっくりだ!」「威厳を感じます」という賛辞だったのだろうか、それとも唇では賛辞を語りつつ、腹では「似ている事は似ているが、見ようによっては悪魔のようにも…」などとつぶやいていたのだろうか。

大審問官ゲバラの像に込められた”看破力”は二百数十年の時を跳躍し、ロシアで火の手をあげた。
ドストエフスキー(1821年モスクワ生まれ)は、あの『カラマーゾフの兄弟』-「大審問官」の稿を書くにあたり、この絵からインスピレーションを受けていたに違いないという。鋭い指摘だ。
「異端審問」という国民均一化=排除=殺戮マシーンに戦慄しつつ、無言で審問官を画とした画家。ロシアの近代化に直面し、あえて火刑荒れ狂う史実の都市を小説とし、思想を問うた文学者は、あの絵を凝視したはずだ。

ゴヤは、エル・グレコから2世紀遅く生まれているが、異端審問はまだ続いていた。ゴヤは『カルロス四世の家族肖像画』で分かるように、やはり同じ”力”を持っていた。それは異端審問も扱った風刺銅版画集『ロス・カプリチョス』や『黒い絵』につながるものだ。最近封切られた映画『宮廷画家ゴヤは見た』は、その裏打ちから来ている。

スペインの異端審問は1808年まで続けられたというから、何と300年に及び続けられたことになるわけだ。エル・グレコもゴヤも異端容疑をかけられたそうだ。”力”を持つものは警戒され“排除対象”にされたのだ。「異端に同情するものは異端」「魔女に同情する奴は魔女」「赤をかばうやつは赤」…気に食わない奴を消すにはもってこいのシステムだった。ピカソもナチスから「異端」と見なされていた。
異端審問廃止決定をしたのがナポレオン支配というのだから、「近代」という激流の大きな渦がここに色濃くあらわれている。

追放、弾圧はまるで絵に描いたように、イベリア半島の先端リスボンからユダヤ人達を大西洋に追いつめた。その海に飛び込み北に向かった人々は、オランダ(ネーデルランド)・アムステルダムにたどり着いた。17世紀初頭には8000人ほどの共同体が出来るほどだったらしい。その村というか街に画家レンブラント(1606年生まれ)は、わざわざ引っ越してきて、そこに住む人々の習俗を描き「旧約の世界に通じる異形のオブジェとして掘り起こす」ことに興じていたようなのだ。

この本にはそうだとは書かれていないが、松岡正剛氏の『千夜千冊』を見てみると、レンブラントもスペイン系ユダヤの直系(マラーノ)であったとある。もしかするとレンブラントの一族は、15世紀末の追放令後、比較的早い時期に海を渡った人々だったのかも知れない。早くにスペイン・ポルトガルから離れたので、レンブラントの世代には、かなりネーデルランド化していて、反対にユダヤの習俗が懐かしく、そして新鮮に見えたのではないだろうか。記憶は50年もあれば充分半減するものだ。版画で多く残しているところをみると、一般に普及させたいという意図も感じる。

いずれにせよ、興の趣くままユダヤの習俗を活写できる姿に、当時のネーデルランドの自由な雰囲気が見てとれる。レンブラントは17世紀の人だが、工房経営にしても「ビジネス」的感覚を感じさせるし、「自分大好き」なのか自画像をやけにたくさん描いたり、愛人から訴えられたりと、何とも「近代」の匂いが濃い人だ。レンブラントの近所にスピノザ(1632年生まれ)も住んでいた。レンブラントはスピノザより三十歳ほど年上で、父親と同世代だ。きっと知り合いであったろう。そして、そのアムステルダムから遠くないデルフトという街にはフェルメールがいたのだが、スピノザと同い年だというのだから何とも興味深い。

その頃のネーデルランドに逃げてきたのはスペイン系ユダヤ人ばかりではなかったようだ。当時の国家や教会から目の敵にされていたデカルト(1596年生まれ)も避難していた。デカルトはエンデハーストという小さな村で『哲学原理』(1644年)を書き上げ、そのすぐ近くの村レインスプルツでスピノザが『デカルトの哲学原理』(1663年)を書いたという。

深い森の中の道を歩いてきたら、17世紀オランダの二つの小さな村に着いた。
二つの村がオランダのどの辺りなのか、少し調べてみたが分からなかった。
どこだか分からないが、この村辺りから…
コギト・エルゴ・スム cogito, ergo sum まるで呪文のような、この言葉あたりから…
私達の風景を眺めてみたらどんなだろうか…








| 遙か遠くの光景 | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
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