行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
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どこかの「国民」にならざるをえない
kyonju

2002年5月、韓国の慶州に立ち寄った。
前日までの数日間光州市にいて、光州ビエンナーレの展示確認とシンポジウム出席を終え、釜山に移動した。翌朝慶州に向かい、夕刻にはソウル行きのバスに乗るというほんの短い滞在だった。

慶州は古くは金城(クムソン)といい、古代王国新羅の首都であった地だ。歴史遺産が多く、日本の奈良のようなところと言えるだろう。実際に奈良と高句麗、百済、新羅の三国は、大和政権の成立から平城京(奈良)にいたるまでかなり濃密な関係だった。

新羅は朝鮮語読みではシルラと発音する。ルは舌を巻いた発音で母音はない。
新羅の旧名は徐羅伐(ソラボル)もしくは斯盧国(シロ、サロ)で、当時最も栄えていた地域名だ。金城(クムソン)とはおそらく中国との関係が濃くなってからの後付けであろう。
ソラボル、サロ、シロとも表されていたシラ、そのシラに漢字をあてがい新羅と表記したようだ。新羅=シルラとは、実に漢字臭くない名前だ。当て字っぽい。反対に高句麗はいかにも漢字臭い。

三国はその後、新羅によって統一され、のちに高麗、朝鮮となっていくので、いまの一般的な歴史認識は逆算方式で、「同一民族」だということを基調としていて、「国」の歴史としている。ほんとうは当時の段階では「朝鮮半島地域史」というほうが正しいだろう。

ややこしいことを言うようだが、新羅などの古代王国は朝鮮史、韓国史のうちというくくり方は、「国民国家」の世ならではの方便であり、往事に立つならば新羅は新羅であり、高句麗は高句麗なのだが、それを現代中国、韓国双方で「高句麗は我が国の歴史」と引っ張り合うのはいかがなものだろうか。ましてや日本のある大学の講義中に「高句麗は韓国=朝鮮とは言えない」という先生もいたりして、本当にあきれてしまう。

いわゆる高句麗、百済、新羅の三国時代には、実はもうひとつ伽耶という小国家群が含まれる。南部を流れる洛東江流域にあった。小国家というのがどの程度の規模を指すのか分からないが、複数部族が合併してできた「支配地」と考えるのが妥当だろう。高句麗、百済、新羅もはじまりの頃はそのようなものだったろう。

その一帯に多くの部族が集落を持ち居住していたが、中でもある地域がとても栄え、他を圧迫、やがて支配下に置く。雪だるまのように段々と大きくなり、「くに」と呼べるような大きさにまでなった…ということだ。それは「くに」達の歴史であって、近代国家の歴史認識で量るものではなかろう。

囲いの中に棲んで飼いならされてくると、方便、常識以外は理解不能なものになるようだ。そのことを痛快に打破してくれる一冊の本と出会った。
『ローマ文化王国ー新羅』という本だ。
由水常雄/著 新潮社/発行

ユーラシア大陸には古くから東西を横断するステップ・ルート(草原の道)と呼ばれているものがある。一部現在のシベリア鉄道もそこを走っている。約8000キロだそうだが、日本の長さが約3000キロなので、途方もない距離とも感じない。ハンガリーから朝鮮半島にいたる道だ。この道を通り、黒海辺りのローマ文化が直接的に新羅にもたらされというものだ。

「常識」的には、四大文明の中国というものが近くにあり、三国ともにその「衛星」だったと語られてきたが、実は新羅というのは、高句麗、百済とは違い、中国文化は受けずにローマ文化を受容してきた国であったというのが、この本の趣旨だ。

本を購入してから、もうだいぶ経つがなかなかすべてを読み切れない。
冒頭から読んでいたが断念し、終章を読み、あとは気になるところから拾い読みをしている。内容は衝撃でさえあり、抜群に面白いのだが、読むのに時間がかかっている。それは著者が持論を好き勝手に語っている本ではないからだ。まるで警察の「鑑識報告」みたいに「物証」をたくさんの図版とともに、丁寧に説明しているせいだ。

「物証」とは1973年から韓国政府が行った慶州での大発掘の成果をさす。天馬塚、味鄒王陵、皇南洞墳から発掘された冠などの装身具、馬具、器、トンボ玉、ガラス杯、リュトンなどをひとつひとつローマ文化や中国文化と比較し、総合で新羅がローマ文化国であったことを証明している。

私の父祖の地は現在の韓国慶尚南道の昌寧というところで、伽耶であったところだ。盧という姓は大元(おおもと)は中国で生まれ、そのうちの子孫のひとりが昌寧にやってきたという。伽耶だったころにやってきたのか、統一新羅のころか、それ以降なのかは良く分からない。いずれにせよ、ユーラシアは地続きで移動はむずかしいものではなく、遠い昔に枝分かれした血縁がハンガリーあたりにいたとしても何の不思議でもない。

人の移動が難しくなったのは、交通手段も発達した近代になってからだ。国境が決められ、旅券が必要となった。旅券は国交があるのみ通用する。人々の旅、移動は国家が決める事となった。
遊牧民クルド人が彼らの「くに」=居住地を失う事になるのは、周辺国の勝手な国境策定のせいだった。また現在のアフリカの窮状は、実情を全く考慮せずに支配国達の駆け引きだけで分割し国境をつくったのが主原因である。近代に移行するための犠牲=生けにえとされたのだ。

18世紀末のフランス革命あたりから生まれてきた「国民国家」という枠、囲い。
それを受け入れざるを得ない時期に生まれたので、致し方ないとあきらめてはいる。
誰もがどこかの「国民」にならざるをえない。
しかし、人の作った物は、やがて使えなくなる時期が必ずくる。
いくつもの嵐が過ぎたあとであることは確かだが、そう遠い未来のことではないだろう。

できれば来年ふたたび慶州を訪れ、今度はゆっくりと巡ってみたいものだ。



silla




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