行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
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「自分」って空洞なんだ
jousui


世田谷にある砧公園、数年ぶりに来た。
23区内にある公園の中でも、かなり大きなほうだろう。
子供がまだヨチヨチ歩きだった頃、家族でよく訪れた。あの頃と何も変わっていない。

広い芝生の広場、遠くまで連なる大きな樹木が気持ちいい。
駐車場から落ち葉を踏みしめながら、
ダニ・カラヴァン展を見るため美術館に向かった。

世界のあちらこちらに、環境彫刻作品を「設置」というより「建設」してきたカラヴァンの展覧会をどうやって行うのだろうか。自分なりに展示を予想しつつ期待をもって歩く。
美術作品を見るのに、ある程度歩かなければならないというのは良い事だ。
山手線の駅を降りたら、すぐ目の前が美術館なんていうのは、気持ちをリセットする時間がなくて、作品と出会うのにはかえってマイナスだ。

展示は予想以上でも以下でもなかった。
予想通り、カラヴァンの主作品である各地に建設された環境彫刻作品は映像や模型で紹介されていた。それしか方法はない。
この展覧会のために作られたインスタレーション作品が二つあったが、個性ある世田谷美術館自体のデザインに、あまりにもはまり過ぎていて、際立ってはいなかった。
収穫だったのは、カラヴァンがまだ環境彫刻に乗り出す前の、舞台美術の模型や図面、壁面レリーフが興味深かった。

幾何立方をいくつも組み合わせたような壁面レリーフの作品は、私自身の懐かしいことを思い出させてくれた。
大学を卒業したての頃、とても自由であったが、まだ「何を作るべきか?」ということがまるっきり見えていなかった。周囲は真っ白くぼんやりとしか見えていなかったのだが、その事に自分も気づいてはいなかった。何よりも「自分」が見えていなかった。
それなのに何かを作りたいという衝動だけが身体の中でうずいていて、やみくもに思い浮かんだ順に粘土で作ったり、木を彫ったりしていた。その頃作った木彫のひとつが、カラヴァンの壁面レリーフに似ていた。完成する事無く放棄した。

途中放棄する作品がいくつ続いただろうか…
放り出された作品を前にして「自分とは何なのか?」「人とは何なのか?」「いまここに立っている世界とは何なのか?」そんな問いがふつふつとわき上がってきた。
いくら苛立っても、立ち止まって考えて答えをだせる自信はなかった。
そのうちいつかどこかで確かな”もの”と出会えるだろうと、仕事をし、本を読み、旅をし、展覧会や映画を見、人と交わり、思い、考え、話し…そして作品を作った。それはいまも続いている。

その次の週。
小平市にある平櫛田中美術館に行った。彫刻家ひらくし・でんちゅうの住まいに美術館を建てたもので、旧宅も残されている。
企画展の『仏像インスピレーション』を見るためだ。
サブタイトルはー仏像に魅せられた彫刻家たち 円空、木喰から平櫛田中、荻原守衛、高村光太郎、そして現代彫刻までーというものだ。

住宅街の中にあり、館は小振りだが、内容の濃い素晴らしい展覧会だった。
ロビーには、高村光太郎の『手』、萩原守衛の『文覚』
ただただなつかしい。
展示の冒頭は、明治の彫刻家達が作った仏像が多く並んでいた。
ほとんどが小品なんだが、それがいちいち良い。
こっちが歳をとったのか、沁み入ってくる。
中でも、いままで全く知らなかった大内青圃の仏像に惹かれた。
とても愛らしい。
茶髪でミニスカ制服の女子高生も、きっと、これを見れば
『かわいい〜』の連呼に違いない。
地下の展示室は、戸谷成雄、黒川弘毅、舟越桂、三沢厚彦などの現代彫刻であったが、まったく違和感なくいい流れの中で見れた。

久しぶりに彫刻だけの展覧会を見て、故郷に戻ったようななつかしい気分だったが、目の中が立体でゴロゴロしているような感じになった。
最後に、もう一度、碌山の『文覚』を見て外に出た。
相変わらず確かな存在感だ。巌のようだ。
碌山の頃は、「人は巌」と感じていたのだろうか

玉川上水の土手道を駅に向かって歩いた。
青い花が咲いている。
ついこないだ「人って空洞なんだ」とふと思った

空洞。入り口も、出口もある空洞。
経験、体験、知識、情報が空洞に入り込み、
そして、しばし滞留し、やがて出て行く。

幾年も留まるものもあれば、すぐに出て行くものもある。
吸収され血肉となるものものもあれば、吐き出されるものもある。
空洞の命ともに、そこに生涯居続けるものもある。

空洞内を探して進んで行けば、光り輝く「自分」と出会うのではなく、
空洞そのものが「自分」なのだ。
どんなものを取り入れる入り口を持っているのか、
空洞内は何を歓迎し、何を見過ごすのか、何を拒否するのか、
取り入れたものを、どのようなものにして出せる出口を持っているのか。

色んなものが「自分」という空洞に入ってきては、出て行く。
世界は「自分」の中に入り、そして出て行く。


hitobito

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