行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
鉄色の、鉄の匂いがする風景 小説『レディー・ジョーカー』
tatsuiro


焼き殺されそうな酷暑が幾日も続いている。
陽が傾き始める頃だというのに、電車の窓から差し込む日差しは強烈だ。
冷房の効いた車内の一番隅の席に座り小説を読む。駅に停まるたび本から目を外し駅名を確かめた。
乗換駅まであとふたつ。最終章の残りページはあと二、三十ページはあるだろうか。

乗換駅に着くと、しおりの代わりに指をはさみ、本を手に持ったまま乗り換え通路にあるカフェに入った。ここでそのまま残りを読み切ることにした。手に持っていたのは新潮文庫『レディ・ジョーカー』下巻、指を挟んでいたページは426ページ目だ。上、中、下巻の三巻構成で一冊がおよそ500ページという長編だが、ようやくそのゴールが近づいてきた。

この数年、小説というものをまったく読んでいなかった。年に一度ほどは何らかしか挑んではみるのだが、その創作世界に浸りきる事ができずに途中放棄するものばかりだった。読める、読む本は圧倒的にノンフィクション類が多く、どうも「お話」を読むことができずに、自然と小説から遠のいていた。

それでも高村薫の小説は、十年以上も前になるが、『リヴィエラを撃て』『マークスの山』と読んだ記憶があり、ある程度の期待はあって買ってみた。

『レディ・ジョーカー』 読み始めてすぐに「鉄色、鉄の匂いー風景」という語が浮かんだ。「鉄色、鉄の匂い」とは、鉄さび、鉄にペンキを塗ったもの、あるいはそのペンキが排気ガスなどで汚れ、雨だれの跡が錆びたもの、くたびれたトタン、ダンプが舞い上げるほこり…そういった感じだ。上巻の舞台となった品川、羽田、大森、蒲田といったあたりは、鉄色、鉄の匂いが一段と濃かった地域だ。

作者もそして私も「鉄色の、鉄の匂いがする風景」の中で育った世代だ。高村薫氏は1953年生であり、私は55年。終戦からおよそ十年で生まれ、高度経済成長ともに成長、瓦礫色の風景はみるみる鉄色と変わっていき、そこかしこでド〜ンド〜ンと杭打ち機の音がとどろいていた。

幼児の頃に新宿発の蒸気機関車に乗り甲府まで行ったという話をすると、あまり信じてもらえない。なぜなら小学生時分にはもう新幹線が開通した。アポロ11号によってもたらされた月面の映像を見たのは中学生だった。

経済成長とともに、鉄色、鉄の匂いは瞬く間に風景全域を覆ったが、すぐにアルミ、ステンレス、チタン、ガラスなどの「ひかりもの」がそこかしこに沸々とあらわれた。ポストモダンやメタポリズムといった言葉が風に舞い、“現代”彫刻家たちもこぞってステンレスの箱のような作品をつくり磨き上げるのにいそしんでいた。

昼夜の境界もあいまいとなり、季節の移ろいも感じにくくなり、まごまごしているうちに、この世界の「陰となったものたち、陰とされたものたち」は、いつのまにか暗い谷底へと突き落とされ、気がつくと似非クリスタルな風景が無関係にそびえていた。
そして、それらは今となっては巨大な墓石群のように見えたりもする。

戦前、東北の寒村出身でかろうじて大手ビール会社に就職した岡村という者が、復員してきて職場復帰したものの、すぐにそこを退職することとなった。その顛末を書き記した昭和二十二年の文章を、ビール会社へ送ったことから始まるこの小説は、企業小説、警察小説、推理小説などと呼ばれはするが、瓦礫から鉄色、似非クリスタルに至る風景の中を、蟻のごとく生きた人々の物語だと、私は読んだ。

一見、意図不明なその昭和二十二年の文章の中に、こういうくだりがある。
《一つは人間であること、一つは政治的動物ではないこと、一つは絶対的に貧しい事です。實にそのことを云ひたいために是を書くのです。……。たゞ此の世に生まれた意味を今以て理解しかねている一人の人間が、この先成仏せんがために書くのです。》

それは、一人のナマの人間の声なのだが、企業論理からすれば、あまりにバカバカしい内容、読むに値するようなものではない。小説は、企業、組織、そしてそこに蔓延るトラップ網でできあがった社会に生きるナマの人間達の葛藤、生きる意味を問わなければならない不幸がテーマになっている。

事件に関わりながらも捜査の一線から外される合田刑事、被差別部落出身で息子を亡くす秦野裕之、闇の世界を追う新聞記者根来史彰、事件の首謀者で生涯工員だった物井清三、犯人の一人である在日朝鮮人高克己など多くの大枝小枝をはり巡らした物語で、看板としては合田が主人公なのだが、あえてあげるなら物井を裏返しにした存在、ビール会社の社長城山恭助に思いが残る。

大手ビール会社の社長として日々奮闘している城山は、カリスマでもなく暴君でもなく、〈企業を率いている経営マシン〉であるが、事件に巻き込まれ、悩みもがくその姿は、大企業の社長と言えども蟻一匹として描かれている。事件はマシンを揺るがし人間としての揺らぎが訪れる。

事件はかがり火となって闇社会を照らし始めるが、それを追う新聞記者根来の「眼」が作品の主調となっている。
《根源も論理も必然も欠いたまま、天皇とか、民主主義とか、差別といったそれぞれの塊は、いまや車の排気ガスやカラオケの騒音に混じって、時代の只なかに不可視の綿埃(わたぼこり)のように漂っている、と根来は思う。その上をJRの電車のまばゆい明かりが走り、彼方の夜空には、東証株価の一万六千円台の乱高下や、日之出ビール社長誘拐六億伝える広告塔の電光ニュースがぴかぴか光り、高架橋の下を行く雑踏の蹴散らした綿埃は、その辺で吹き溜まりを作っているのだ、と》…中巻

日之出ビール社長誘拐云々というのは、物語に合わせたものだが、ここは秋葉原無差別殺傷事件でも幼児虐待殺人事件でも、何でも良い。まばゆい風景の中を、人々の思い、情念、拘り、信条、志向などが綿埃となって漂ったり吹き溜まったりしている…秀逸な描写だ。

こんなくだりもある。
《付け狙われているという圧迫感は、それほど先鋭でもなかった。それよりも根来は、自分自身の心持ちのほうがはるかに茫々としているのを感じた。具体的な一つ一つの事柄ではなく、自分を包み込んでいるこの時代と社会のトンネルはどこまで続いているのか、もういい加減、空を見たいといった漠とした息苦しさだった。振り返っても後ろには何もなく、行く手にも何もない。ああ、ろくでもない人生を送ってしまったと独りごちると、急に一杯やらずにはおかれない気分になった。》…中巻

これは根来の個人的な状況からくる心情だけを言っているのではない。〈自分を包み込んでいるこの時代〉を見つめる者、見つめようとする者がやむなく陥る絶望感、虚脱感だ。

物語は勝者も敗者もなく終わる。
物語の狂言回しは「カネ」であるが、作者は「カネ」を得て、なおも人食い鬼のごとく修羅の道を生きる者どもへの言及はない、「カネ」は強請ったけれども、それが目的ではなかった奇妙な者たちの行方で幕は閉じる。それらの行方に不満足はなかった。大枝小枝のはった大木の姿が、ありのまま心に残った。

この小説のモチーフとなったのは、『グリコ森永事件』だという。あの事件が起きた頃は、事件そのものにたいして関心はなかった。この本を読み、改めてあの未解決未解明事件を知り、小説以上の深い闇に言い知れぬ戦慄を覚えた。

この記事は別ページにもしてあります。
http://ro21.org/page/lady.html

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| 風景の行方 | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
“抗い”は流れをあぶり出す
10.5.21


”忙殺”という語、何気なく使う事が多いが、しげしげと見てみると凄みのある字ズラだ。このところ殺されるほどではなかったが、窒息しそうにはなった。タスク、些事、煩事ひとつひとつに気を取られているうちに、いつしか頭の窓は閉まったままとなり、淀んだ空気が立ちこめていた。

日々の暮らしを楽しむようにと思ってはいるが、そううまくはいかないものだ。気がつくと、自らが作った「日常」という壁、いやもしかすると誰かがこっそり作り出した「日常」にべったり貼り付いてしまって余裕を失っている自分がいる。

そんな時はやはりリセットが必要で、人が旅に出るのは、おそらくそのためだ。
旅に出る事がかなわないなら、身近で同じ作用をしてくれる”何か”を見つけなくてはならない。この間も隙を見ては展覧会情報などを眺めてみてはいたが、どうにも食指が動くものを見つけられない。

それでも上野の科学博物館でやっている『大哺乳類展』はなんだか見てみたくて、なるべく空いていそうな平日を選び行って来た。いい展示だったが、期待しすぎたせいなのか、もの足りなく感じた。そのせいなのか、館を出るとき何故かライオンのぬいぐるみなんぞを買って帰って来てしまった。以来こいつは居間のソファに寝そべっている。

五月の連休は一時的に夏日になった。
冬終わり、春が来たのではなく夏になったような陽気だった。
あまりの暑さに戸惑い、外に出るより、散らかっていた机の上やら仕事場を片付けた。郵便物の束からハガキが出て来た。展覧会のDMだ。
写真の上に『ドロの舟と、』の赤い文字、「大矢りか、野外作品写真展」
「そうだった」と二日後にでかけることにした。

10.5.21a


会場は神保町、神田古本街。
周辺で面白そうなものがあれば、他も見に行こう。
ギャラリーの情報などは、おそらくツイッターなんぞがいいかもしれないと検索してみる。
いくつかアート情報のツイッターページが見つかったが、告知ではない感想口コミのものは見つからなかった。

展覧会情報などは『よかった!』などの一言でも充分だから、告知でないものがあるといい。そういうものばかりがツイートされているページがあれば便利だろうに。もしかするともうあるのかも知れないがツイッターそのものをやっていないので、いまいちよく探せない。

ネットの中をうろうろ巡っているうち、カロンズネット(現代美術のウェブマガジン)の情報欄で「青野正」の名前が眼に入った。
青野さん、本当に久しぶりだ。十数年ぶりだ。
展覧会タイトルは『テツモジ』。銀座五丁目にあるギャラリーだ。

御茶の水駅で降り、神保町に向け歩く。
新築されたビルも多くなり、昔の面影が失われつつあるのは残念だが、世界一の古書店街はまだまだ健在のようだ。ぶらっとひとつの書店に素見し(ひやかし)で入った。学術書の背表紙というのは、書棚に鎮座しているだけで言い知れぬ迫力がある。それが幾重にも並んでいる姿には圧倒される。

『奈良朝服飾の研究』『神語りの誕生』『韓日昔話の比較研究』『ロシアの神話』『中国古鐘の研究』…分厚く重そうな背表紙の文字を読んでいるだけで、頭の中を色んなものが広がっていく。デジタル時代まっしぐらだが、こういう古書店の有り様は無くなってほしくない。
”実”があってこその”写し”だ。

大矢さんは、このところ海外ー韓国、オーストリア、オーストラリアなどでの野外制作展示が続いているようだ。ドロや木、藁などの自然素材を現場で調達し、それらを用いて舟の形をつくり、展示している。作品はその場で朽ち果てて自然に帰って行くまでの過程を包含している。おそらく作る意思や意味よりも、作られたモノ(舟として表わされた)たちが、土に還っていく姿、時間を作品としたものと思われる。

当然ながら、神保町の会場(クラインブルー)ではドロ舟はなく、現場の写真が展示してあった。
「当然ながら」と書いたが、もし神保町あるいは都心のギャラリーなどでこの舟を出現させようとしたら、それはまったく不可能ということではないだろう。かなりの苦心と運に恵まれれば可能だ。しかしドロ舟がそこで朽ち果て自然に還っていくことはできない。展示期間が終われば“ゴミ”として処分される事になる。それでは作家の意図とは正反対で醜い。

土に還り残らぬ美術、文明へのアンチテーゼ。
いかにそれを記憶として残すかが課題だ。今回のような写真による展示、それも答えのひとつだろう。

地下鉄を乗り継ぎ銀座へ。
青野さんの展覧会はShowcase/MEGUMI OGITA GALLERYというところだ。
始めて行くギャラリーで、うまく探せなく電話をして聞いた。

手すりの無い狭い階段を四階まであがった小さなホワイトキューブスペース、ショーケースとはうまい名前だ。その小さなホワイトキューブの壁全面に、小さな鉄の像が張り付いている。
トンボ、熊のぬいぐるみ、ピストル、人々…色んな小像が象形文字のように並んでいる。
おそらく作家に聞けば、鉄文字で書かれた物語を読み解くことができるだろう。

たくさんの小さくかわいいテツモジ達、だがそれらは鉄のもつ荒々しい表情をむき出しにしている。
撫でたり握ったりすれば手が痛む。GINZAの居並ぶ海外高級ブランドビルに挟まれるように建つ細くて古いビル、その小さなスペースに小さいが荒々しい鉄の像達が呪文を唱えるように並んでいる。なかなか良い風景だ。

ドロと鉄。
私たちの身近にありながらも、意識される事はほとんどない。
彼らは何故、流れに”抗う”ようにそれらを提示するのだろう。

世間ではピカピカ、キラキラ、スベスベ、とろーりとしたものが風靡している。言うまでもなくそれらは現実を覆う薄皮にすぎない。人々の関心、欲望、命運のすべてが”マネー”によって、末梢まで”支配”されているという現実の実相、実態を、それらをもって覆い隠そうとしている。それが今時の風の流れだ。

ラメ色きらめく街の風景。
整然と「日常」を生きる人々。
薄皮の下に眼を凝らせば、人々の膨れ上がった苛立ち、暴力衝動、絶望感がどす黒く横たわっている。溜まったエネルギーは時として、あらぬところに”裂け目”をつくり噴出する。
それを“事件”と呼ぶ。

ラジカルでもなく、エグくもなく、強弁でもないアート(美術)でも、良心的な“抗い”を秘めているものはたくさんある。
“抗い”は流れをあぶり出す。そして変えて行く…そう信じたい。

10.5.21b



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| 風景の行方 | 17:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
寝そべって何を見つめ何を思っているのか
lion


このところ気温差が激しい。
まだ春先だというのに、日中シャツ一枚ですごせる陽気になったかと思うと、夕方から風向きが変わり、突然真冬の寒さになったりだ。それにあわせて体調がおかしくなるので困ったものだ。

冬の終わりに暖かい日が数日あると、身体は「春が来た」モードになってしまう。新作にとりかかったのは、3月半ばの暖かいある日だった。
丸太をいきなりノミで彫り始めた。午前中から始め、暗くなるまで木槌をふるっていた。調子に乗りすぎてオーバーワークになった。疲れたなと思った矢先、寒さが戻って来た。

「急に寒くなったり暑くなったりすると葬式が増えるんですよね」
こんな話を聞いたのはいつだったか。うわの空で聞き流した頃は、こちらもまだ若い時分だった。最近、この言葉をちょくちょく思い出すから悲しい。

環境考古学者の安田喜憲先生の本によると、
地球というのは人間にとってそんなに生易しい相手ではないそうだ。
「ないそうだ」というのは間抜けな言い方だが、我々が生まれ育ち現在生きている地球の環境というのは比較的安定している時期であり、気候とはこんなものというのは認識不足もいいところのようだ。

いまから3000年前から2800年前(紀元前1000~800年)の地球はかなり寒く、生きるのに大変だったようだ。日本で人気のある古代エジプト、その王国が下り坂になる時期が、丁度その頃だ。

エジプトの末期王朝は紀元前500年頃で今から2500年前だが、世界的な気候悪化期の末期で、「飢饉や疫病が流行して難民が生まれたり餓死者が出て、多くの人々にとって地獄のような時代だった。そのストレスが極大に達した時代にイスラエルの予言者やソクラテスや釈迦や孔子が登場し、人々を救済したのである」※

おおいにうなずける。まったく私たちの生活はわずかな気温の差で、大きなダメージを受けるものだ。現在、野菜が高値になっているが、これは2月の気温が低く育ちが悪かったり、温室栽培の場合、燃料を使ったためだ。

夏の盛り、気温が体温を超えると危険な状況になる。気温が数度も違えば色んなところに弊害が広がる。おそらく数度程度の振り幅は地球という星ではありうべきことだが、人間にとっては大変なことになる。

巨大地震も地球にとってみれば瞬きほどのことだが、その上で生きている生物にとっては大変なことだ。それこそ、くしゃみなんかされた日には、すべての生物の存続さえ危うい事態になることだろう。

このところチリ、ハイチ、メキシコとアメリカ大陸での地震が続いていて不気味だ。地球規模の何かが起こる前兆なのだろうか。
地球の在り方が人間の運命であることは間違いない。

体調が悪くなった時は何もせずじっとしているのがいい。
ライオンなどが、サバンナでじっと寝そべっているのは、きっと夜の狩りのために休んでいるのだろうが、一体何を見つめ、何を思っているのか気になるところだ。
疲れて疲れてどうしようもない時は、ライオンを見習い寝そべってゴロゴロしているのだが、何かせずにいられないのが人間の悲しい宿命だ。寝そべってできること、新聞や本を読む。テレビを見る。できることはこんなところだろう。

「BBC地球伝説」というテレビ番組をよく見る。
自動で録画してあるので、寝そべるときはそれをよく見る。面白い回もあり、退屈な回もある。眠れぬ夜に見てると必ず眠気がやってくるので、便利でもある。

先日『ヒューマンジャーニー 遥かなる人類の旅 始まりの地アフリカ』という回をゴロゴロしながら見ていた。
人類の故郷はアフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)であり、ホモ・サピエンス(現世人類)に進化したのが、20万年ほど前で、その中のある一群がアフリカから出てアジアに、そしてオセアニア、ヨーロッパにと拡っていったそうだ。

この一群というのは、ほんの数百人単位であった。このことは世界的な遺伝子調査で明らかになったという。つまりアフリカから出たほんの一握りの人々が、いまの全世界70億人の先祖ということらしい。
驚きだ。にわかには信じがたいが…

アフリカから移動した一群、色んな状況、様々な環境に出会っただろう。状況に応じ、環境に対し、一群の中では「行けるところまで行こう」と移動した人々、あるいは「ここが良さそうなのでここに残ろう」という人々に分かれただろう。進んでは分かれ、進んでは分かれ、世界に広がった。
「行こう」と「残ろう」人類の歩みはとどのつまりこの二つの行動原理しかないようだ。

この最近の遺伝子調査で分かったことは、ミトコンドリアDNAという母親→娘にしか遺伝しないものを調べていくと、全人類は20〜10万年前のアフリカのある一人の女性に行き当たる。この女性のことを「ミトコンドリア・イブ」という名前で呼んでいる。
この名前、まるでこの一人の女性が全人類の母のような印象を与えるが、実はそうではない。実際は、幸運にもこの女性の遺伝子が女系途絶えること無く全人類に広がったという事なのだが、まったくまぎらわしいネーミングだ。

番組は進む。
アフリカの北は砂漠が広がり北上できなかったが、気候変動により海面が下がり、現在は30キロあるアラビア半島との海峡、マンダブ海峡も10キロほどに狭まり渡れるようになった。そしてアラビア半島の海岸沿いを伝って北上しペルシア湾の北に出た。こういう流れだったが、このペルシア湾周辺を、”エデン”と呼んでいたという結びには、鼻白んだ。

まあ、テレビが厳密な事を言っていたら番組にはならないので仕方ないかとも思う。テレビを前に据え、机に向かって視聴している人はほとんどいないだろう。
大抵ソファに座るか寝そべるか、新聞片手にみかんののったコタツに座っている人が大半だ。テレビ誕生以来、幾百、幾千万の番組が、世界中の家々のリビングやダイニングに流れ込んでは消えていった。
いまでも基本的には同じだ。

ただこのところ、少し趣きが変わって来た。
寝そべってテレビを見ているとき、疑問に思った事、調べたい事をすぐにネットで検索してみたい時がある。あるいは新聞や本を見て確認したい事がある。
できなくはない。ソファやベッドの傍らにノートPCを置いておくという手もあるが、実際は面倒だ。
やはりというかまだまだというか、パソコンというのは机が一番だ。
最近のテレビはネットにつながったりするのもある。でもパソコンに比べたらその動きは比ではない。新聞はたまれば捨ててしまうし、本は書棚の前でにらめっこしなければならないか、無ければ買わなければならない。

アップルが iPadを出した。
ネット閲覧ばかりか、新聞や本も読めてしまう。画面も大きく軽く“寝そべり型”にも、これはいけそうだ。(通信料はちょっと心配だが)

興福寺の阿修羅像を360度から拝観できる iPhone/ iPodアプリができたそうだ。もちろん iPadにも対応するだろう。知識や情報を得る方法、写真や映像を見るスタイルもますます変わっていきそうだ。
寝そべって阿修羅像を拝む、か… 何だかバチがあたりそうでもある。

ともかく端末、接続を含めてインターネット事情は、急速に大きく進化してきたし、進化しつつある。最先端にはほど遠い私個人の環境でさえ、大きく変わった。
わざわざ電話線を外してつないでいた頃、接続速度の遅さにあきれた。それがISDNとなり、光ケーブルとなった。一時は無線でも使っていた。もちろんパソコン自体の技術革新、OSからアプリケーションまでのソフトの発展は言うに及ばない。この十数年の進歩と言うか変化は、私たちの生活を変化させた。

この変化は個人のサイトを作りにも変化をもたらした。
少し前までは画像はできるだけ軽くというのが常識だった。接続に時間がかかるからだ。もちろん今でもその常識は生きているだろうが、接続環境は大きく変わり、また画像の容量を軽くするのが、手軽になったせいもあり、それほど神経質にならなくなってきた。
制約からすこしづつ解放されつつあり、自由になってきた。本を出したければ電子書籍という手段も現実となった。

今回、作品ページを試しにひとつ作ってみた。
『作品 [コギトの椅子] 大きな画像』というページだ。
1200×1252ピクセルという大きな画像を貼付けたページだ。大きくても画像容量は403 KBしかない。商業ページの広告画像と同じような容量だ。

2002年に作った初期のページでは、大きな画像と言ってもせいぜい500×375 33KB程度だった。『風景の行方、作品の行方』1ページ目


媒体が変われば表現のスタイルも自然と変化して行くだろう。やれること、できることを探していくしかない。私自身の行動原理は「行けるところまで行こう」のようだ。ノロノロだが…

私の作品も寝そべって、つらつら見てもらい、何かを思っていただければ幸いだ。

だいぶ前に作ってあった
作品『風景の箱』の動画もYouTubeに載せておく事にしよう。

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※ちくま新書『一神教の闇』安田喜憲著からの抜粋



| 風景の行方 | 13:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
腰痛記 ”酔い”はモンスターをつくりだす
10.1.31.c

朝、腰の痛みはまだ残っていたが、仕事には出かけて何とかこなして家に帰って来た。ソファに腰掛けてしばらく休んでいたが、痛みが段々ひどくなってきた。外はもう暗くなり始めている。病院に行くべきかどうかしばらく迷っていた。

座っていてもズキンズキンと痛い。寝るともっと痛くなりそうで、一旦横になったら起き上がれるかどうか不安だった。しばらく立ったまま新聞を読んだり、テレビを見ていたが、このままでは眠れない夜を過ごすはめになりそうなので、やはり病院に行くことにした。

数年前にも腰痛で診察を受けたことがあったが、ヘルニア等の病名がつくものではなかった。単なる『疲労性腰痛』。先生もはっきりしたことは言えないようだ。痛み止めの注射をうってもらい、鎮痛剤をもらい帰宅した。

ふーふー声を出しながら苦労して靴下を脱ぎ、なんとか着替えをすませると早々とベッドに横たわった。横になるのも一苦労だ。薬が効いているうちに寝てしまおうと、目をつぶりしばらくジッとしているが眠れない。寝返りをうちたいが腰を動かさないようにするのは不可能。そうこうするうち過去の腰痛歴のことが次と次と思い出されてきた。

二十数年前、子供達が元気に跳び箱を飛ぶのを見ていて、何となくやってみたくなり混じって跳んだ。馬鹿なことをした。着地と同時に、腰からバキっと音がして激痛が走りしばらく動けなくなった。帰路はやむなくタクシーに乗って帰ることになり、後部座席に寝ころばせてもらった。そのタクシーの運転手さんが腰痛持ちで、運転しながら腰痛についてのウンチクを熱く聞かせてくれた。

それからは、とにかく疲れがたまると腰痛が決まってやって来た。
次に腰痛に襲われたときには、ある人に整体を勧められて行ってみた。上半身をゆっくり回され、なすがままにされていると、突然ぎゅっとひねられ、ボキボキボキボキーッと雷が落ちたような音が背骨からしたのには肝を冷やした。その後も痛みが来るたび、整形外科にも、鍼灸にも行った。電気治療も受けた。二十数年の間に、嵐に巻き込まれるように何度か見舞われ,何度か治療を受けた。

ある時は、仰向けでもうつぶせでも痛くて横になれない、座る姿勢なら何とか痛みが少ないので、半月ほど毛布にくるまりイスで寝ていたこともあった。疲労で腰痛なのに、横になって眠れないため寝不足でなかなか回復せずに困った。あれは幾度目?何年前だったろうか…??
うつらうつらしながらも、当時の出来事が断片的に記憶の中で光を浴び浮かび上がって来た。

本当に忙しい時期だったが、不思議に煩雑で厄介だった実務のことはまったく思い出さない。脈絡無く当時出会った人達や話した時のことが浮かんできては消えた。めぐりめぐって眠りに落ちる直前はなぜか正岡子規のことを考えていた。

といっても、子規の何を知っているというわけではない。知っているのは司馬遼太郎の《坂の上の雲》と、漱石の書いた文の中に出てくる子規の姿だけだ。痛い痛いの連想から子規が浮かんだみたいだ。

《坂の上の雲》文中、病に冒された子規は本当に痛そうで痛そうで読んでいるこちらまで痛くなった。秋山兄弟の活躍、日清、日露、明治の日本をうまく表出した優れた小説で、そういう面で話題にされることも多いようだが、子規の痛さ、痛い子規の文学活動のくだりも、世間的にもう少し高く評価されていいのではないだろうか。

痛み、痛さを作品として、記憶として残しておくというのは重要なことだ。人は何でもすぐに忘れる。激痛さえも痛みがおさまれば忘れる。忘れるから前進もできるのだけれど、痛みを身体や心が発する「声」ととらえるなら、それを心に焼き付けておく何ものかが必要だ。

とにかく…朝が来て目が覚めた。
夜中に寝返りをうったのかどうか分からない。
寝床から這い出しテレビをつけソファーに座った。座れるようにはなったので、いくらかは回復したようだ。何とか仕事にでることはできそうだ。
テレビでは秋葉原連続殺傷事件の初公判について報じていた。

日曜の電気街の交差点、あれから600日も経ったのか…
追い込まれ、自らも追い込んだ犯人には、道行く人々の姿は自分と同じ多くの痛みを持って生きている存在には見えなかったに違いない。人も、看板も、店舗も、ビルも、ガードレールも、信号も、家族も、知人も、過去の出来事も何もかもが解け合い、自分以外は巨大な突撃すべきモンスターと見えていたのだろう。

身体性が必須な実社会は、その濃かった「つながり」がそこかしこで切断されるにいたり、あちらこちらで行き止まりになっている。
身体性なきネット世界の「つながり」は恐ろしいほどのスピードで拡張しているが、虚実はにわかに判断しがたい。
実生活とバーチャルの混淆はますます加速して行く。
ネットとバーチャル、これは乗り物酔いのような”酔い”がありそうだ。
”酔い”は時に、自身の網膜の中にモンスターをつくりだすようだ。

腰はまだ痛い…。


10.1.31b
腰痛の原因のひとつは長時間の運転のようだ。
運転席シートにこんなものを買ってみた。
ボディードクター バックアップ


| 風景の行方 | 18:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゆるい構え
09.12a

「早いな〜、もう今年も終わりだ」
と決まり文句のように、つい先日もつぶやいた。
こうつぶやいたりできるのも、この一年、大きな支障もなく何とか生きて来れたためなので、何ものかに感謝しなければならない。

正月には初詣に行く。特に信仰心があるわけではないが、世間を生き抜いて行くにはあまりに寄る辺が少なく、何ものかに祈念を一年に一度くらいはしたほうが良さそうだといった気分からだ。根は墓参りとさして違わない。草葉の陰や来世といったものを信じているわけではないが、墓にも参り、法事もする。

とかく「信仰心がないのに、初詣は神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は寺でする」と自嘲気味に、この国の人々の宗教との関わりが揶揄される。
そうなのだろうか??
信仰心が薄いのだろうか?

神社の数はおおよそ全国に8万ほどあるそうだ。社殿はなく鳥居と祠(ほこら)だけがあるといった小さいものも含めると20万とも30万ともいわれている。お寺も8万ほどあるそうだ。いずれもすごい数だ。そればかりではない、辻や岐路、道端などにある地蔵尊、道祖神などは、それこそ無数というくらい多いだろう。この数をもってして信仰心が薄いとはとても言えない。

なるほど、明治から終戦まで神社は国家神道として崇敬する事を国民に義務化していて、国家的に保護もされてきたようだ。ただその数が明治になってから急に増えたとは考えにくい。ひとつひとつの由来は様々だろうが、そのほとんどが百年単位で拝まれ、尊重されてきたものだ。あるものは江戸時代から、あるものは鎌倉時代から、またあるものは平安時代から、といったようにである。

逆に、明治といえば西欧近代化であり、合理的な街作りのために小祠や地蔵、道祖神などは邪魔だからどけてしまえと考えるのがオチなのだが、実はそうではなかったようだ。また、数が少なくなったとしたら、やはり終戦後とも思えるが、ときおりビルとビルの隙間の猫の額のような空間に小祠を見つけたり、高層ビルの屋上に新しい鳥居と祠があったりするのを見かけると、たとえ少なくなったとはいえ、数えてみれば予想を越えるもので、それはあなどれない数のような気がする。

そのように数多く残っている理由は熱心な宗教者、信徒がいたからだ、と鼻息荒く述べる人もいるだろう。否定はできない。
しかしそれだけではないだろう。
「信者ではないが尊重する」といった「ゆるい構え」の人々、あるいは「ご利益がある」や「バチが当たる」というほどの人々が星屑のようにたくさんいて、永く生き長らえてきたのだ。

元来、日本は自然崇拝、自然信仰の国だ。山、海、木、岩に神宿るといった心を持つ人々の住む国である。
山の麓にある神社、そのご神体は目の前の山という話は多い。生活するいろんな場に神がいるという人々の心根は、はるばる遠方から来られた神々の真偽を取りざた排斥するより、それらを承認し受け入れようとする方に自然と傾くのではないだろうか。「ゆるい構え」とは、そういった寛容な構えなのだ。

「ゆるい構え」は外来の宗教の独占、緊縛、親切の無理強い主義からすれば「信仰心が薄い」ということになってしまうが、反対に心の下地ともいえる自然信仰心はゆるぎないとも言える。《となりのトトロ》や《もののけ姫》はこの下地にダイレクトに訴えるものがあり、多くの人々に受け入れられた。そして映画達は海外でも広く受け入れられたようなので、日本以外でもこういう心の下地は存在しているという証明となった。希望はなくはない。

数百年というスパンでの歴史の軸や歯車を見直すべきときが近づいてきているようだ。私たちの暮らしや人生は、当然、軸や歯車の作り出した歴史時間の流れの中にある。その中を漂っているようでもあり、流されているようでもある。流れが大きすぎてはっきりとは分からない。そしてこの流れの少し先が滝へと連なっているのか、はたまた大きく旋回しているのか、これまたハッキリ分からないが、いままでとは大きく違うということだけは、確かに予想できる。

気がつけば何かをまっさらから始めるには億劫な年齢となってしまっているが、流れの変化を見極めつつ行動を起こして行かなければならない。
抱負ともつかぬ抱負を思う…年の瀬となった。
良いお年を。。


neko

上の写真/岐路にある馬頭観音
下の写真/猫の地蔵

| 風景の行方 | 18:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
心の底石
ikebukuro

酸素バーなるものが登場してだいぶ経つような気がする。
効果のほどは経験が無いのでなんとも言えないが、行く人の気持ちが分からないでも無い。

嗅覚は鈍いほうではないので、繁華街を歩くときや、車の往来が激しいところなどでは、
知らず知らずに息を抑えている時が多い。無意識のうちに粉塵やほこり、匂いを気にしている。
それに加えて、このところの新型インフルエンザの流行だ。
マスクこそして歩いてはいないが、心の隅でやはり気になっている。
混雑した電車の中で、なるべく人と向き合わないように注意している。

むろん意識的に息を止めたりしているわけではないが、日々の生活の中で、大きく息をする機会が少なくなっていることは確かだ。「呼吸不足症」などという語はないだろうが、そんなものになっているのかもしれない。森に行って深呼吸したいところだが、そうそう毎日森まででかけることもできない。こうした実は目には見えない、見えにくい事柄が、いまの私達の生を知らず知らずに脅かしているような気がする。

インフルエンザといえば、先月みんぱくの講演会でその話を聞いた。
講演されたのは、北海道大学大学院の教授である喜田 宏先生
演目は《人獣共通感染症をいかに克服するかーインフルエンザを例に》
正直のところ、知識が薄く内容をかいつまんで説明できるほどには理解できなかったが、
一般人が理解すればいい点をしぼってくれた話だったので、ままに聞いた。

頭に残ったのは、「鳥や豚などの家禽の感染症は、その家禽で封じ込める事が最も肝心」
…白い防護服を着た人たちが鶏舎を消毒する映像を思い出した。
「鳥や豚からインフルエンザなどがヒトに感染したからといって、すぐに高い病原性となることはなく、ヒトからヒトへの感染を繰り返すうちに高病原性となる。つまりバージョンアップしていくことが問題」
…インフルエンザウィルスとは本当にしぶとく強いようだ。

話の中で印象に残ったのは、インフルエンザの棲み家、本拠地が北極圏にある湖という話だった。インフルエンザは地球上に相当古くからいるウィルスらしく、それが北の湖の氷水の中にいるそうだ。ウィルスは熱に弱い。氷水は丁度ウィルスを冷凍保存している状態となっている。

その北の湖、そこにいるカモなどの渡り鳥が、冬になり越冬するため南下し、人里近くの湖にやってくる。人里が近い湖には、家禽であるアヒルなどもやってきて、カモの運んで来たウィルスに感染する。そしてアヒルと一緒に生活している鶏に感染、そして一緒に飼われている豚にも感染し、やがてヒトへと感染する。これがルートだそうだ。

以前、温暖化でシベリアの凍土が融け始めているという話を聞いた。
凍っていたいろいろなものが融けだしたら、どうなるのだろう?…


「感染」という語は、もちろん感染症からの語だろうが、文化の「伝播」というのも、語は違えど同じようなものだ。食、衣服、音楽、知識、情報、思想、そして美 これらは伝えられたというより「感染」していったという方が実際のニュアンスは近いと思う。

国立西洋美術館で《古代ローマ帝国の遺産》という展覧会が開かれている。
ローマ帝国成立期の繁栄、暮らしぶりを美術・工芸品やポンペイの遺跡から見せよう、というものだ。ポンペイのある邸宅の庭をバーチャルに再現したCG映像がよくできている。
生活に余裕ができたローマ「市民」は、別荘をもち、その別荘を古代ギリシア風の彫像や装飾で飾り、かわいい庭をしつらえ、古代ギリシアの哲学書を読んだりして時を過ごしたそうだ。

よくギリシア-ローマとひとくくりにした表現がされるが、ローマが古代ギリシアをお手本にしていたという意味と勝手に受け取っている。実際に彫刻等はギリシア時代のものから直接コピーしたものが少なくないようだ。ローマは「ギリシアかぶれ=ギリシア文化感染症」だったわけだ。

では、ギリシアはどこから感染したのか?
通説はエジプトらしいが、東地中海と考えた方がいいのではないだろうか。
エジプト、ヨルダン、イスラエル、レバノン、シリア、小アジア、ギリシア、クレタ島に囲まれた東地中海はいわゆる瀬戸内のようなものだ。ギリシアにポリスが形成されるはるか昔から海上交通は頻繁だった。様々な地域から、いろんなものがもたらされ刺激を受け、吸収し開花したのだろう。このあたりのことは、ゆくゆく突っ込んで調べてみたい。

西洋美術館に来たのは、ほんとうに久しぶりだった。
先日、古代ギリシア文化圏美術史を研究されている羽田康一氏の講義を聴講させてもらえる機会があり、それに触発されたからだ。

羽田先生の講義内容は古代ギリシアのブロンズ彫刻の鋳造法、製像についてだが「目からうろこ」といった話が多かった。そのひとつ、有名なデルフィー(デルポイ)の馭者像についても説明があった。四頭の馬がひく二輪の戦闘馬車(クワドリガ)の馭者の像だ。馬や二輪馬車は残っておらず、馭者像だけが残っている。見ているこちらも背筋がピーンとなってしまう静かな緊張感がたまらない名品だ。

その馭者像、相当な美男子だが、目(眼球)をまぶたに固定するためにマツゲを銅板でつくりはめ込んであるそうだ。目はオニキスでつくってあるという。気がつかないほどうっすら口が開いていて歯がついている。歯は銀の打ち出しだ。口が開いているというのも、今回始めて知った。
製法、材料、技術には、その時代の粋が結集されるものだ。それは史料として重要なはずで、こういう研究が他の文明文化においても一層発展し、横断的-縦断的検証が豊富になり、一般に接しやすくなればどんなにいいことだろう。

ローマは言わずと知れた大帝国だった。遺跡、遺品、文献、物語も多く。今回の展覧会でもそうだが、往時の生のリアリティは受け入れやすく想像しやすい。よって映画等の題材にも多く使われ、豊富なコンテンツゆえになじみもある。人間臭く近しい感がある。

一方、古代ギリシアは紀元前で、ローマに比べれば材料が乏しいということもあり、生のリアリティは実感しずらい。生活感として近しい感じを持つ事はできない。しかし文学、自然哲学、人間哲学、歴史学、彫刻、建築の礎はこの古代ギリシアなのだ。

彫刻だけを言えば、よりなじみあるローマ、その彫刻は残念ながらいただけない。それに引きかえ、人々や社会が実感しにくい古代ギリシア、その彫刻は文句無く素晴らしい。人間臭い”美”ではない、問答無用の”美”だ。否応を超えた”美”だ。

若い頃、それらの幾つかと出会った。
心を湖に例えるなら、これらの偉大な彫刻達はひとつひとつ石となり、湖の底に沈んでいった。デルフィーの馭者像もそのひとつだ。
石達は湖の底を固めてくれた。それから長い歳月が過ぎたが、その間湖面が波立つこともしばしばあったが湖底は揺るがず、心の平衡が大きく崩れそうになるとバランスを保つ重石となってくれた。
彫刻とはそういうものだ。




delphy





| 風景の行方 | 16:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
響きをとどろかす
aiweiwei

「ごっつい面構えをしているな…」
どこで見た記事なのか記憶していないが、記事そのものより、そこに載ったそのアーティストのポートレートに目がいった。面構えなんていう語は、イケメンとかカワイイむすめさんには使わない。コワモテの中年男、中国の現代美術家アイ・ウェイウェイという人だ。その顔につられて作品を見てみたくなり六本木まででかけた。

会場に入ると、1立方メートル(幅、奥行き、高さ1メートル)の立方体が幾つか並んでいる。いい感じだ。
伝統的な組み木によるもの、テーブルとしたもの、1トンのプーアル茶を立方体にしたもの。ミニマルなんだが、民俗的。
作家は80年代から90年代にかけて十数年ニューヨークにいたそうで、その時期の作品だ。何だかうなづける。
すでに確立された表現形式とはいえ、作品の中に、中国からニューヨークにやって来た作家のストイックな魂が入った逸品だ。

場内を見渡すと、観客のみなさんが作品をカメラでバシャカシャ撮っているのには驚いた。
携帯のカメラで撮っている人が大半だ。三脚やフラッシュを使わなければ撮影がオッケーされている。ほとんどの人がカメラ付き携帯や小型カメラを持ち歩く時代、ブログやツイッター、投稿写真サイトが盛んになったこの時代、こういう処置は、美術館にとっても観客にとっても悪い事はなにもない。美術は”実物と出会う”べきものであり、写真や映像がいくら出回っても、それは宣伝の用しかなさない。美術展は商業映画やイベントに比べればまったくの宣伝不足。見に来た人たちに写真を撮って公開してもらえば、いい宣伝になる。

上の写真は、私もみなさんと同じように携帯のカメラで撮ったものだ。
この作品が一番気に入った。プーアル茶を固めてつくった”家”だ。

この”家”以降は、作品が”建築的”になっていく。
また、ビデオやパフォーマンス、プロジェクト、デザインと表現領域も広がっていく。
実際に建築の設計にもたずさわり、北京オリンピックスタジアムのデザインにも参加した。
彼の思考の根っこにはいつも「現代中国」があり、切り口は変われどそれが軸となっているようだ。

ただ作品は初期の方がいい。ストイックな頃の方がいい。
作品が大型、多様、多彩になるに従い、濃くではなく薄くなっていっている印象を受ける。コンテンポラリーアートでしばしば見受けられる”ディスプレー”のようになってしまっている。〈フォーエバー自転車〉やランドセルをつなげた作品などだ。

しかし、そう感じるのは、彼の作品を見るこの私が、ニューヨークと同じ構築の終末期を迎えた社会・都市の端っこに住んでいるせいなのかも知れない。私の立ち位置ー脱構築を標榜する次元から見れば”ディスプレー”に見える作品も、目下熱烈構築中の中国の現在では、その響きがとどろく芸術であるのかも知れない。
表現形式などは何でもいいのだ。作家が息をしている社会、時代にその作品が響くかが問題なのだ。

ともかく、芸術の秋、文化の秋ということで今月は何だか慌ただしい。
六本木の後は、銀座で知人の個展、その後大手町に行き、国立民族学博物館の公開講演会《人・家畜・感染症》に参加…。少し食傷気味なスケジュールが幾週続いたが、数日前久々に昼前から時間が空いた。今日は早めに帰りゆっくりと、と思っていたところに、『今日と明日、権鎮圭(クォン・ジンギュ)のシンポがあるよ』という知らせが入った。権鎮圭展が近代美術館とムサ美であるのは知っていたが、シンポジウムがあるとは知らなかった。
明日は無理。今日だけでも参加しようと武蔵野美術大学(ムサ美)に向かった。

権鎮圭とは、韓国の高名な彫刻家だ。今回の展覧会のサブタイトルにも「韓国近代彫刻の先覚者」とうたわれている。しかし、おそらく日本では知っている人の方が稀だ。
権鎮圭は終戦後(47年)に日本に留学、ムサ美(現)で学んだ。
二科展などで活躍した後、59年に帰国する。帰国後は不遇だったようだが、逝去後著名になった。

いまでも韓国からの留学生が多く学ぶムサ美であり、創立80周年を記念した事業のひとつとして企画されたものだ。国立近代美術館も2点所蔵している縁だろう、韓国国立現代美術館と3者による共同開催となった。

権が日本に居住した期間は短く、「在日」というにはやや微妙なものがあったが、美術家として日本でのウェイトが大きく濃密であったので、2002年に京都で開催した《アルン展ー在日コリアン美術を起点として》に特別展示として十数点展示した。逆な言い方をすれば、日本に展示できるだけの作品が残っていたので、そういう企画も成り立った。

残っていた作品というのも、公開されていた情報があったわけではなく、まさに探し出したわけで、展示までこぎつけるのにはかなり苦労したが、いまではいい思い出となった。当時、宣伝用に紹介文も書き「権鎮圭が、日本でも正しく評価され紹介されることを、切に願いたい」と結んだが、七年後の今日実現したことは感慨深い。であるから権鎮圭展に行かないわけにはいかない。

シンポ会場に行く前に、展覧会場に先に行った。
(近代彫刻家としての権鎮圭の詳細な説明、評価、賛辞などは発刊された立派なカタログや会場でのキャプションを読んでもらうこととして)会場に数多くならんだテラコッタの頭像を見やりながら、違った感慨をもった。

西洋美術を輸入したあとの日本では、それなりの喜び、そして苦しみがあった。
新奇なものに強い憧憬を感じるが、反面拒絶反応も相当にあった。咀嚼、消化の苦労、葛藤といったものだ。権鎮圭はパリに留学したわけではないが、やはりその喜びと苦しみを持っていただろう。日本…清水多嘉示という師、美術界という壁にバウンドしたものとはいえ、同じ煩悶をもっただろう。いや、バウンドゆえに、より複雑な感情を持っていたかも知れない。会場全体を通して何かそんな呻きのようなものを強く感じた。

濃くていい想い出ばかりの日本をあとにして権鎮圭は帰国する。理由はいろいろあっただろうが、やはり作家としての「立ち位置」の問題が大きかったのではないだろうか。彫刻家として、生まれ育ったところを立ち位置にして、手に入れた表現で、戦争で灰燼に帰した国に何ものかの響きをとどろかせたかったのだろう。
帰国直後は《カレーの市民》あるいは《弓を引くヘラクレス》のようなものを作りたいと思っていたのではないだろうか。結果的にそれは果たせなかった。

同じ会場だが、別空間に師である清水多嘉示の作品やパリ留学時代の写真なども展示してあった。
その写真を見て驚いた。
ブールデル教室の一同が揃った集合写真の中に、清水多嘉示はもちろん写っているのだが、前後して佐藤朝山が写っていた。この時代の美術史を研究している人には何のことは無いことだろうが、何やら”新発見”をしたようでうれしくなってしまった。ジャコメッティも横顔で参加しているのが、これまた面白かった。

来週にでも近代美術館に行ってみよう。


kwon


アイ・ウェイウェイ展
http://www.mori.art.museum/contents/aiweiwei/index.html

権鎮圭展ー武蔵野美術大学
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2009/09-07kwon.html

権鎮圭展ー国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/kwon_jin-kyu/index.html


彫刻家・権鎮圭について
http://www.areum.org/home/02/lecture/kwon_syoukai/kwon_syoukai.html

「去り行く風景」死と生(このサイトの内09.2.27の記事)
佐藤朝山について記載あり
http://yukue.ro21.org/?eid=1176904





| 風景の行方 | 11:01 | comments(0) | trackbacks(1) |
ふたつの記事
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9月19日の朝日新聞夕刊文化欄にインタビュー記事が二つ載った。
ひとりは世界的なファッションデザイナー高田賢三氏、もうひとりは児童買春防止NPO「かものはしプロジェクト」代表の村田早耶香氏だ。
記事は別々のもので、偶然同じ紙面に載ったものだが、ある意味での「対照」として受け取った。

高田氏は1939年生まれで70歳を迎えられる。戦中生まれで終戦時6歳、戦後日本を形作った第2世代に属するだろう。成長する過程は戦後復興期、高度経済成長期。
一方、村田氏は1982年生まれの27歳、「団塊の世代」の子供に属する世代であり「できあがった」あとに生まれた。成長する過程はバブル崩壊、平成不況。

高田氏は姫路から上京、新宿の文化服装学院で学び、銀座の三愛に勤務。銀座でよく遊んだ。当時は若者ファッション文化”みゆき族”が流行していた。その後、パリに渡りブティックを開店、成功を収める。
『70年に現地(パリ)で店を開いた。あの頃は資金がなくても好きなことができた。始めての作品がいきなり雑誌「エル」の表紙になったり、新聞に掲載されたり、最初の10年間、生活ができたのは、ジャーナリストのおかげ。今は広告費のある大組織に入らないとマスコミに取り上げられない。若いデザイナーに同情します。…』記事からの抜粋

できあがってしまった所には、新しいイスを置く余地はない。
そんなところだ。

「建設」の鎚音高いところでは、新しいものは受け入れやすい。新興、新開拓はそれはそれで大変だが、少なくとも可能性のあるものにはチャンスが与えられた。
そして、成長し繁栄し隙間無く「もの」が作られた上には、新しいものは受け入れられる余地がなくなる。人々の素朴な「思い」は煩雑な手続きを経なければ、場を与えられる事はなくなった。

高田氏についての記事を読みながら、これからは人々の活躍がこういうシーンよりも、別の全然違ったシーンで増えていくのではないのだろうか、そんなことを漠然と思った。

下段にある、村田早耶香(さやか)氏の記事を読む。
大学生のときに受けた国際協力の授業。東南アジアでの児童買春の惨状を知る。また、その実態を自分の目で確かめるために現地に行った。
子供が、親の借金のかたに売春宿に売られている。こんな例が無数にあり、救済のためのプロジェクトを立ち上げる。卒業と同時にプノンペンに渡り、現地事務所を開設して、様々な困難と戦いながらも、現在精力的に活動している。

『他人よりいい暮らしをすることが幸せだという価値観を知らず知らずに刷り込まれていたことに、カンボジアへ行って気がつきました』+『豊かとは、他人の痛みを自分の痛みと感じられること。そして世界の出来事を〈自分と関係のあること〉と思える、視野の広さがあることではないでしょうか』--記事より抜粋

高校生の頃は『国際協力の仕事に興味があったが、国家公務員として取り組むのが目標』だったそうだが、
結局は”組織ありき、活動ありき、運動ありき”でなく、自らが現地に行き確かめ、自らが活動をつくりだした。ここに少なからぬ敬意と大きな希望を感じた。

高田氏の世代でも、世界の”負”の問題に対して活動した人は多い。
村田氏の世代でも、世界的なファッションデザイナーを目指す人は多い。
そういったことではない。
この偶然に並んだ記事から、世代のひとつの典型を読み取る事はできるし、そう読み込みたいと思う。前世代は価値観を建設しつつ生きて来た人々であるし、後世代は「できあがってしまった」社会、価値基準に対して疑問を感じ、それを自らの出発点、歩幅でできるところから変えようとしつつある人々だ。

「できあがってしまった」閉塞化した現実に風穴を開けようとする活動は、世代を超えてそこかしこで無数に起きてはいるが、生活の微々細々にいたるまで『市場原理』が入り込んでいる現状はきびしいものだ。
巨大な壁、そんなようなものだが、自らも分子としてその壁の一部を構成しているところがややこしく、手強い。

しかし、個人個人が起こしていく、価値基準・プラットフォームの変革と多様化は壁を突き崩す希望が持てる。人の世界を計る物差し、ハカリは幾つもあるはずだし、多ければ多いほど人の世は豊かになるはずだ。『原理』は硬直しか生まない。やがて必ず破綻する。

既存の価値基準への懐疑、検証。そしてそこから逃げるためではなく、戦うための尺度を持つ事、それが知らず知らずに既存の閉塞型価値観や一時の流行熱に縛り上げられた私達の”生”を、自らに取り戻す一歩となるのではないだろうか。
このことは日本の戦後史の曲がり角といったものにはとどまらない。それこそ世界レベルでの『食い尽くし型』文明からの大きな転換点となっていく貴重なことだ。時代はそこまで来てしまった。

高田氏の記事は上段、村田氏の記事は下段
今の時代、村田氏の記事こそ上段であるべきだ。
この段組みの価値基準を聞いてみたい気がする。





| 風景の行方 | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
一本の直線 地中海から
columbus

ここしばらく、テレビでは「酒井!酒井!!」の連呼が続いている。衆議院選挙の名前の連呼とだぶり「さかい・のりこをよろしくお願いします」とも聞こえてしまう。ニュースの作り手・送り手が丁度「清純派アイドルのりぴー」のファンにあたる世代なのか、『だまされた!、欺かれた!!』という語気の荒さに当惑だ。

麻薬は大学生等にも広がっているという。
閉塞した現実は虚無感を生む。
麻薬蔓延の温床はこの虚無感ではないだろうか。
実はこの虚無感というのは、人間社会にとって慢性の恐ろしい病弊なのかもしれない。

坂道を元気によいしょ、よいしよと上っている時は病も鎮まっているが、停滞し始めるととたんに忍び寄ってくる。虚無という黒い海に落ちないようにするには、打ち寄せる波に気を取られず、日々の一歩一歩を大切にするしかないようだ。心の在り方という古くてそしていつも新しいこの事がキーでしかない。

しばらくバタバタしていて、大航海時代のイベリア半島から遠ざかっていた。(09年4月記事『気づくと”森”の中に立っていた』)
15世紀末のスペインから17世紀オランダの小さな村に行き着いて、そのままになっていた。岩波新書『コロンブス』を開いて、戻る事にしよう。この本の著者は増田義郎氏で1979年8月20日第1刷というから、丁度30年前に出版されたものだ。出版後にコロンブス研究で進捗があったかも知れぬが、いまは不問とし、やわらかい語り口の魅力あるこの一冊に沿ってみる。

冒頭から「なるほどな〜」と思わされたのは、当時の、15世紀ヨーロッパの「書き言葉」事情だ。当時のヨーロッパは「書き言葉」確立以前であり、文盲率もかなり高かった。このことは教育=学校という近代の重要な構築物を自動的に受容してきた私達には、ピンと来ない話なのだが、「書き言葉」の確立は近代化の重要な礎のひとつだ。

「書き言葉」が成立していないので、当時の公式文章はラテン語で書かれ、そのラテン語は公証人が書くことができた。一般の人々は、家の中の細かい決まり事から、借用書など残しておきたいものがあると、わざわざ公証人の所に行き文章にして証拠として残した。文字が書けるという事はまだ『特権』だった。

話すのは地方の方言、書くのはラテン語というのが長く続いたようなのだが、この15世紀中ほど辺りから、スペイン語(カスティリャ方言)が文語として確立してきて、コロンブスもこれを習得した。イタリアはトスカーナ、ナポリ、ヴェネティア、ジェノヴァと方言があったが、トスカーナ方言が文語の地位を確立し、ジェノヴァ方言はついには書き言葉にはならなかった。コロンブスはイタリアのジェノヴァ出身なのだが、方言は違えど、言語的に近い「トスカーナ方言の文語=イタリア語」を習得すればよかったような気もするが、あえてスペイン語だった。いやスペイン語でなくてはならなかったのだ。

それはジェノヴァ人(商人)が、数世紀前から地中海西側のポルトガル・スペインに数多く進出していて、ジェノヴァ人が活動しやすい地盤ができあがっていたせいだ。海洋国家の雄ジェノヴァは東にはライバル・ヴェネティアがいるし、オスマン・トルコもいて、熾烈な競争、紛争をしていた。しかし西にはまだ未開拓の可能性が充分あった。いきおい十三世紀頃からスペイン、ポルトガルという国へ進出していくことになる。時期はレコンキスタと重なり、王国、ジェノヴァ両者にとって好都合であった。

ジェノヴァ人は、造船や航海技術に長け、交易ばかりでなく、信用制度や為替、手形取引等の銀行業務を西地中海の各地に広め、やがて商業と金融を支配するようになり、社会の支配階級に進出していく。それに加え16世紀になるとジェノヴァ自体の内紛で資本や経営術が、両国に流れ込んだ。当然、資本は投資先を求める。コロンブスはベンチャーだったのだ。

コロンブスは伝承の国「黄金の国ジパング」を目指していた。この私はその伝承の国であろうジャパンにいる。コロンブスと私を結ぶものはその程度しかないと思っていたが、「ジェノヴァ人の活動」ここが歴史の流れの大きな分岐点のようだ。イベリア半島のジェノヴァ人とこの21世紀日本とは、一本の直線によって結ぶ事ができるだろう。地中海が育んだジェノヴァ人の経営、資本、金融、投資は、大航海時代の幕を開き、いまの私達の足下までつながっている。

イベリア半島に移り住んだジェノヴァ人の中に多くのユダヤ人がいたそうだ。以前より移住していたユダヤ人(スファルディ)とも太いつながりがあった。経営、金融に長けた彼らは特権階級にのし上がるが、強い反感反発を買うことにもなる。「郷に入れば郷に従え」で当地でうまく生きるためにはキリスト教(カトリック)へ改宗する者が多かった。この者たちはコンベルソといわれ、マラーノという蔑称でも呼ばれた。

コロンブスは支配階級にいるこのコンベルソ達から多くの資金、支援を受けることになる。コロンブスの航海はコンベルソ達の「活路」でもあったはずだ。改宗したとはいえ反ユダヤ感情はいつどんな形で噴出するか分からない。社会が停滞・閉塞したとき、虚無の黒い雲に覆われ、拒絶反応でヒステリー状態に陥ることがある。そのヒステリーの矛先がいつ「ユダヤ」に向かってくるかも知れず、そのことは骨身に沁みて分かっていたはずだ。烙印とは恐ろしいものだ。コロンブスが出航して17日後にスペインのユダヤ人追放令が下される。このタイミングは実に象徴的だ。

それにしても、ユダヤ人を多く含んでいたジェノヴァ人の社会とは、一体どんなものだったのだろう。ユダヤ排斥、弾圧は中世ヨーロッパでももちろんあった。ジェノヴァといえども例外ではなかっただろう。想像に過ぎないが、「海の民」というのはその辺かなり自由な気風で、社会制度においても鷹揚であったのではないだろうか。交易が主であるなら、金融は不可欠、人種、信仰よりシステムの動力となるものが尊重されたと思える。

また意外に思ったのが、ジェノヴァ人達の「身軽さ」だ。商機や成長を、ジェノヴァあるいはその近海に求める事ができなくなったとはいえ、けっこう簡単に他国に移住しているという印象を受ける。オスマン・トルコの脅威がすごかったのか、「海の民」ならではということなのか、ジェノヴァ特有なのか、この世紀あたりからなのか、移住した彼らは故郷のジェノヴァをどう思っていたのだろうか、よくわからないが気になる。

筆者増田氏は最終章で、フランシスコ会の会員・信者としてのコロンブスの世界観ー黙示録的、神秘主義的な信仰心について言及している。『世界の終末が迫っている。その前にもろもろの異教徒に布教して改宗させ、できるだけ多くの人間を神の王国に迎え入れなければならない』…
キリスト教布教と近代世界システム形成。コインの裏表なのか、より合わされた縄なのか、詳しく見て行けば、まだまだ興味深いことと出会えそうだ。

そういえば、『アマルフィ 女神の報酬』という映画が公開されている。そのアマルフィもジェノヴァとライバルの海洋都市国家だった。アドリア海に面したドブロヴニクも同時代の海洋都市国家だが、その城塞の石には、「世界中の黄金をもってしても自由は売らず」と彫ってあるそうだ。行ってみたいものだ。


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岩波新書『コロンブス』(地中海とコロンブス)の章、扉絵





| 風景の行方 | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
一バレルの石油に等しき我が人生
eki

このところかなり忙しかった。
幾日も徹夜同然などという生活はしたくてもできる年齢ではないので、なるべくタスクが集中しないように努めてはいるが、どうにもならない時期もあるようだ。毎晩深夜までの仕事が続いた。

こうなった時は得策などはない。とにかく、毎日毎日へばりつくように、期限の迫ったタスクからひとつひとつ片付けていくしか解決の道は無い。丁度、ロッククライマーが崖というか巨岩にしがみつき、一手、一足を、無駄無く、効率よく、ひとつひとつ力を込めて登って行くように、あゝいう気分で仕事を片付けていかないと、タスクのすべてを無事に成し遂げられない。少々の休息はとっても、他の考えに意識を奪われ、気持ちが飛んでしまうとだめだ。

へばりつき、しがみつきもピークは数日で過ぎた。
ほっと一息、ビタミン剤を飲み、疲れた目に目薬を注しながら…
人の生というのは所詮”へばりつき、しがみつき”なのか。。。などとしびれた脳で考える。
フーテンの寅さんの人気が出たのは、何ものにもへばりつかず、しがみつかなかったためだ。寅さんのようには生きたくても生きられない世の中となったからだろう。寅さんも、イージーライダーも、ヒッピームーブメントも何ものかへのもがき、抵抗、反作用であったことは確かだ。流行などではない。

あまり話題にもされないし、どこかの正式な調査報告もないが、都内の鉄道人身事故はかなりの数に違いない。
車内放送の『ただいま人身事故のため運転を見合わせています』に、他の乗客達は何を思っているのだろうか?ラッシュ時に予定外のところに停車した電車、流される放送、あの異様な濁った沈黙の空気は何とも形容しがたい。新聞のほんの小さな記事にはなってもニュースにはならない。何事も無かったように列車の運行は再開されるが、あの空気はなくなることはなく、乗客達が分け合い引っずっていき拡散する。

連休明けの出勤時間。一番ブルーな時だ。何だか事故が多いような気がする。
不慮、不覚の事故?自殺? 
会社から”へばりつき”を拒否されたのか、
ホームから見上げた青空に”しがみつき”の人生が突然むなしくなったのか、
あるいは休暇が無かった過労のため足下がふらついたのか、
知る由もないのだが、想像しがたいものでもない。

”へばりつき、しがみつき”は生きものとしては当たり前のことだ。
しかし近代に入ってからのそれは、それ以前とは比較にならない次元を迎えた。
すり替えられたのだ。
”へばりつき、しがみつき”は「仕組み」の義務となった。
生きよう、生き抜こうという本来的な生きる意思は、共同体を支えるための犠牲精神となり、一時の美しさを持つが、波がひき高揚が去ると義務だけが残った。そしてその義務がまるで宿命であったかのようにすりかえられた。生き、働く事は国家の、機構の、市場のための義務と定義された。

あこがれの一戸建てマイホームは、産業革命の頃のイギリスで始まった「制度?」だという。一家族一戸制は世帯数を把握するのに良く、税がかけやすい。管理しやすいということだ。
人々の”生”を数量として把握、活用、制限、はたまた品質管理までしようということになった。一兵士が一弾丸に例えられるなら、一個人は一バレルの石油と考えられていても何の不思議は無い。
一バレルの石油に等しき我が人生。。。
そこに生きる意味を見いだそうとしても、ムズカシイ。

最近、漱石が多く読まれているという話を聞いた。
多くの人が「気づき」「探している」のだ。
漱石はロンドン留学中から近代文明、近代性の限界を感じていて、相当手厳しかった。
開化、開化の奔流のような時代のベクトルに疑念を抱いていた人だ。
小説とは別の意味で文明論考や講演集などに教えられる事が多かった。

文明論、文明批評というのは、聞き手に敬遠されることが多い。
へばりついている、しがみついている現実とはかけ離れているから実感がわかない。
それが分かったところで自分ではどうして良いのやら分からない。
文豪、国民作家として尊敬される漱石だが、この面では当時としては”進みすぎていた”ほうではないのだろうか。懸命に西欧の近代を「坂の上の雲」として追いかけていた時代だ。
漱石の文明論を聞く人は頭がねじれる感じがしていたであろう。

(そういえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』を書くとき、漱石をかすめていったが、漱石の文明論をどのように思っていたのだろう?確かそのあたりに言及したくだりはなかったようだったが…)

“余裕派”とは、当時の自然主義文学者や浪漫派文学者が、漱石を揶揄して名付けたあだ名だったと記憶している。漱石は○○主義でもなく、○○派でもなく、漱石は漱石だった。そこのところが○○主義、○○派の人たちは気に食わなかったようだが、バカバカしい名だ。名付け由来のうんちくも知らぬではないが当を得ているとは思えない。明治の「近代人」として漱石ほど余裕が無かった人はいないはずだ。「近代」に合った新たな書き言葉を創出しつつ、大車輪で小説に立ち向かっていた。

汲々とへばりつく姿を吐き出すような言葉で作品にする。何ものかに傾倒耽溺する姿、心情を書き連ねるのも文学だ。しかし自分たちが乗る事になった汽車の、路面電車の、あるいは自動車のある社会が、人間に何をもたらすのか。新しい社会となって旧社会の道徳律が壊れた後、人は何を持って生きるべきなのか。

西欧文明は単に道具として進んでいるものが入ってきただけではない。文明を動かしている宗教、哲学、思想もドッカ〜ンと入ってくる。人々の”生”はどうなるのか。ドッカ〜ンは西を掠め、東を侵し、ついに眠れるアジアを収め、一神教世界観で世界を浸した。
漱石は「浸されつつある時代」そのものに対峙し、苦悩する。そして「近代作家」として後世に多くの道しるべを残した。

「このへばりついている”私”とは一体何なんでしょうか? へばりついていることにそんなに意味があるんでしょうか? そもそも何でこんな境遇になったのでしょうか?」
答えを探して、その道しるべをたずねる人が多くなったということではないのか。

漱石もドストエフスキーも、若い頃に無我夢中で読みふけった”山”だ。
また、そろそろ分け入り登ってみたくもあるのだが、今は遠くから望むその山の大きな姿になんだか気後れしている。



passenger
作品『降りることはかなわず』陶、焼き閉め




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