行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
ウェブサイトの整理
 

 だいぶ涼しくなった。あの夏の暑さ、熱さに比べれば随分しのぎやすい。
 暑い盛りは、制作はおろかパソコンの前に座っているのも嫌で、時間があれば本ばかり読んで過ごした。 

来年の夏もまた同じように猛暑の連続なのだろうか? 
多少の変動はあるだろうが、数十年単位で北半球は「暑い熱い夏」になるような気がしているが、どうだろうか?? 

予想が本当になれば、地球にとっての小さな変化は、ヒトだけでなく生物全般にとってとてつもなく大きな変化だから大変なことになる。人類史の主舞台だったユーラシアの歴史さえも大きな影響を受けるに違いない。

 かといって、取り立てて何をどうするということも出来ないので致し方ない。
 ようやく涼しくなったので、とりちらかった身辺の整理でもして、自分が先に進む用意をするだけだ。 

窓を全開にし風を入れ、後回しにしてきたウェブサイトの整理をすることにした。
 まず、95年に開いた展覧会の写真をページにした。『現代を思ふ、土に想ふ』展 

1995年12月に開いたこの展覧会は、10年ほどの間に、ぼつぼつ造った作品から残したものを展示したものだ。 

当時はまだ、デジタルカメラは普及しておらず、当然画像加工を自分がすることなど現実的ではなかった。もちろん金を出せばいくらでも可能ではあったが、立体作品の撮影はかなり面倒でむずかしく、ご近所に住む写真家井出貴久さんに無理を言って撮ってもらった。

今回その写真を新たにスキャンしなおしデータとした。 あれから十五年、それなりに前に進んで来て、高度が上がったから息苦しくなって来たのか、単に息が上がって苦しいのかよくわからないが、歩んで来た道のりを確かめる意味でページにした。

こういうケースの時はiPhoto→iWebというのは実に便利だ。 

ついでに、ro21.orgのインデックスページを、文字通りインデックスとして、サイトマップとして更新しておいた。r o 2 1 . o r g ノート 

JUGEMテーマ:日記・一般
| 続/作品の行方 | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
コギトの椅子
cogito

歴史とは面白いものだとよく思う。
目に見えるものではない、触って確認できるものではない。しかし誰もが簡単に口にする。
遺跡、遺物、美術品、土や板や紙に書かれた記録、写真や映像。それらは「歴史的遺物」ではあるが、歴史そのものではない。

歴史的な遺物やそれにまつわるエピソード、伝承、記憶などから想像、構成されるものが歴史なのだ。過ぎ去った日々は確実にあったものだが、いまは幾つかの遺品だけを残して消えてしまった時間。
歴史とは時間、記憶が枯れ、風化し土にかえったものとでも表現すればいいだろうか。そんな「歴史」そのものを何か見える形で表せないないだろうかと、かねがね考えていた。

ある日、椅子の形をした作品の姿が思い浮かんだ。
うまい具合に、仕事場の隅には改装工事をしたときに使った柱材の残りが、幾本か放置してあった。ほこりを払い、雑巾で拭いてやると、充分使えそうだ。少し材料を買い足せばいけるだろう。どんな形の椅子にするかは、閃いたイメージを忠実に再現すればいいので、苦労は無いのだが、さて、それからが、なが〜い作品との対話、格闘の日々だった。

結果的に、実に長い時間がかかった。着手からなんと一年半かかってしまった。
つくっては壊し、またつくるの繰り返しだ。最初に思い浮かんだ時の姿は、実に無責任なイメージだけで、それを「いま」の自分と折り合わせる作業に多くの時間がかかってしまった。


cogito2


椅子を知らない人は、この世にはまず居ない。万人の知る当たり前の「かたち」だ。
このかたちを借りて、かねがね思っていた「歴史」を表してみようと思う。椅子の柱、桁、背もたれ、座面のすべてに無数のひとの姿を彫り込んだ。森の中に生まれ、木を切り出し、やがて集落をつくり、他集落と奪い合い、砦をつくり、争い、巨大な権力を築き、他を殲滅、支配する…こういった姿を彫り込んだ。

風化して土にかえった時間や記憶の上に、新しい生活が生まれ営まれているのだから、歴史というのは足下にあるといえばあるのだが、普段は不可視で、特別に意識もされない。その存在が「当たり前」と認識されているというところが、椅子のかたちと似ている。

現在と歴史がつながっていることは、日々の繰り返しの中に突然起こる事件、事故、矛盾、衝突、紛争という現実の「裂け目」を通して知る事になる。例えば、ある事件を通して、ある個人の個人史を、その人の育った地域史を、その時代史を知りたくなくても知ったりする。

椅子には「裂け目」を作った。そして日常の風景を写真で挿入した。
現実・風景の裂け目から歴史をかいま見るのではなく、歴史(椅子のかたちをしているが)から現実・風景が見えるという事になった。

cogito3

作品が大方出来上がりつつある頃、これをどういうところにおいて見るといいのかを、しばらく考えていた。どう考えても現実・風景の中に置いて見るのが一番のようだ。しかしそんな場所はない。(後日、画像の中だが、渋谷の街角に置いてみた。これ、かなり気に入っているが現実には不可能だ)

展示場所を思いめぐらしている頃、展覧会出品の話がやってきた。現実・風景の中に置くべきものをホワイトキューブで見せるにはどうしたものか。いろいろ考えた末、椅子の中の一番大きな裂け目(というより”穴”)に、風景の中にある椅子の姿を映像にして映し出す事にして、出品することにした。椅子の一部に風景が映像で映し出され、その風景の中に椅子があるということになった。

作品のタイトルは『コギトの椅子』とした。コギトはコギト・エルゴ・スムのそれだ。
私達の眼前に広がる、この”来るところまできた”近代の風景は、やはりデカルトが源流であろうと思っている。コギトから始まった近代風景。アジアの果てで最も鋭くせり上がったその風景の一角に育ったのだから、何かを思わずにはいられない。

ロダンはデカルトの影響を多く受けたそうだ。代表作『考える人』は世界的に有名で、多くの国にある。
あの像こそ、まさにコギト・エルゴ・スムの像だ。彫刻作品としては、もちろん傑作であり何もいうことはないが、人は何の上に座って考えてきたのか、いや何の上で生きてこられてきたのか、という視点はなく、そろそろ、その事をきちんと考えるべき時期に来ていると思う。

『コギトの椅子』が展示してある展覧会は、韓国のソウル南郊の果川市にある国立現代美術館で開催されている『アリラン・コッシ(ありらんの花の種)』というタイトルの展覧会だ。
遠いところばかりで展示しますねーと、よくお叱りを受ける。そういえば、東京では2000年以来展示していない。残念に思う。








| 続/作品の行方 | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
埋もれずにゴミとなる
hako

形(かたち)とは鍛えられるもの…だとしばしば思う。
石を彫って何かの形をつくる。
木を彫り、組み上げ何かの形をつくる。
鉄を切り溶接し、形をつくる。
土もまたしかりだ。

切り、割り、削り、たたき、磨き、張り合わせ…
形作る行為というのは、まるでモノ(素材)に形を覚え込ませるような営みともいえる。
それは石や木といった「実材」でなくても、絵の具や墨、インクなどもあてはまる。
モノたちはある形に鍛えられて、この世に出現する。
鍛えられた形は「人の意思」で満たされる。
モノに命を吹き込む、などと言ったりもする。

博物館で石器時代の石斧や石包丁などを見かける。
石器時代の人々は、鋭く割れる石を選び、程よい大きさや鋭利さを求め石を割り、研ぎだし斧や包丁を作り出していた。
土の中から、それらが発掘されるとき、すぐさまそれらが使われた時期や人々の事が特定できる訳ではないだろう。情報量はかなり少ない。
しかしそれらが人間の手で作られた事は直感的に伝わるものだ。
他の石ころとは違う、人の手によって「鍛えられた」かたちである事が伝わるからだ。

ルーブル美術館にあるミロのヴィーナスは、ギリシアのミロ(メロス)島の農夫が畑仕事をしていて、土の中に埋まっているのを偶然発見したものだ。
想像するに、はじめ鍬などの先に像の一部があたり、何かと思いその辺りの土を除けていくと、大理石の石肌が現れる。その微妙な膨らみのある形は建築部材のような幾何学的なものではないようだ。どんどん土を掻き払っていく。始めに出てきた形の奥には細かな曲線をもつ部分がでてきた。なんと耳の形をしている。彫像に間違いない。そして順次、頭が、胸が、腰がというふうにでてきた…順番などはどうでもいい。

メロス島には行かなかったが、ギリシアの土は赤黒い粘土質といったものではなく、かなり白っぽい黄土色だ。大理石は白肌色といえばいいか、そんな色の彫像が埋まっていたとしても、そんなには目立たない。手先で慎重に被っていた土を払っていくうちに、分かってくる。その石が「鍛えられた」形であると感じられた時のときめきはどんなだったろう。
掘り進むうちに想像をはるかに越える発見に身震いした事だろう。

学生時代、奈良巡りをしていて、聖林寺の十一面観音像と出会った。
あまりの美しさに感動し、時の経つのを忘れ見とれていたのだが、
その時、そこの僧侶がこの観音像の由縁を話してくれた。
もう、その話のほとんどは忘れてしまったのだが、やはりミロのヴィーナスと同じように観音像も一旦は打捨てられ土に埋もれてしまったのを、偶然発見され掘り出して寺に安置したという話だった。洋の東西で似たような話があるなと感心して記憶した。
この文を書くにあたり、聖林寺のHPを確認してみたが、上記の話はでていない。奈良を再び訪れる事もあるだろう。その時の宿題としておこう。
ここの十一面観音像は奈良時代創建の大和大御輪寺の本尊だったそうだ。
天平時代の傑作の一つだ。

ともかく…
人が作り出したものーそれがどんなに素晴らしいものであっても、廃棄されることがある。
いや、ほとんどが廃棄される。
時代キャストの交代か、価値観の変遷か、あるいは放棄せざる得ない事件のせいか、新たな局面には不必要なものとなり、棄てられ、忘れられ、埋められ、埋もれていくのを黙認されてきた。それが歴史ということなのだろう。
「人の歴史は廃墟となる」とはベンヤミンの言葉だ。

しかし、棄てられ、忘れられ、埋められ、埋もれたものたちも、時を経て、ある時発見される時がある。発掘され、再びこの世にその姿を現す事がある。
もちろん発見、発掘されるものすべてが価値あるものとして歓迎されるわけではない。
見つけられたが、またすぐに廃棄されるものもある。
選別の基準となるのは「鍛えられた」形であるか否かであろう。
それがすべてではないが、はじまりではある。

我々の生きているこの時代が廃墟となったとき、何に埋もれることになるのだろうか?
もう土砂に埋もれる事はないだろう。
鍛えられた形もそうでないものも、一時代が過ぎれば、それはゴミとなり分別される。
ゴミの分別は材質別に行われ、処分される。
ここがベンヤミンの生きた時代とは大きく違うところだ。

石は砕かれ砂利として撒かれ、
木は燃やされ、
鉄やブロンズは地金として溶かされる。
埋められることもなく、埋もれることもない。
「再発見」も「発掘」も無い。ましてや「土に帰っていく」という事の無くなった時代を、私たちは生きている。

aoioka


上の写真は『青い丘』という作品だ。95年の個展『現代に思ふ、土に想ふ』の時に展示した。
この展覧会までにつくられた作品たちは、常に「自分、自分のこと」というのが陰を落としていた。しかしそれもこの個展がきっかけとなり、ふっきれた。
テーマが次に移行する事により、この時に展示した作品たち、つまり95年までに作られた作品は『無用』のものとなった。どこかに「しまっておく」ことにして、忘れてしまっても良かったのだろうが、『何に埋もれることになるのだろうか?どう埋もれさせる事ができるのか?』ということが気になった。

5年が過ぎた。
2000年6月の個展は『失ったのは記憶、されど行く』とタイトルをつけた。
つくられたものたちが、何に埋もれさせる事ができるのか、どう埋もれてしまうのか、何の答えも見つけられなかったが先に進まなければならないといった、気合いというか気負いのタイトルだった。

そして同じ年の暮れ、丸木美術館での展示では一度自らが「埋めてみよう」と思いたった。
「自分、自分のこと」という陰が落とされた作品たちを土に埋め、その上に、その後の作品を置いてみる…そして何が見えてくるのかを見てみたかった。※1

「埋まった」作品たちの姿は悪いものではなかった。
しかしあくまで“展示”であったので仮の姿だった。
数年後、この時の「埋めた」作品のうちから3点が韓国の慶南美術館に引き取られることになった。今頃は”展示”も終わり倉庫の中にしまわれている事だろう。
美術館の裏庭にでも埋めさせてくれと申し出た話は以前書いたが、実現する可能性は今のところ薄い。※2


※1/ http://rofungsok.ro21.org/1.html

※2/http://yukue.ro21.org/?eid=521137
    http://yukue.ro21.org/?eid=522078

kohyang

写真/開発の進む慶南美術館のある韓国・昌原市街





| 続/作品の行方 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
「残る」美術、「残さない」美術
Beuys

国立新美術館に行き「安斎重男の“私・写・録”1970-2006」という展覧会を見た。“私・写・録”とはパーソナル・フォト・アーカイブス=私的な関心から写した記録という意味をあらわしている。

安斎氏が1970年から現代美術の展覧会場や、作家を撮った約5000点の写真の中から、約3000点が展示されている。膨大な数の「現場」写真だ。写真展だが、写真によるドキュメンタリーを展示してあるといったほうが適切だろう。パーソナルであるため、安斎氏の個人的な関心が軸になっており、それにそって一年一年ページをめくるように、昨年までの記録を見る事ができる。

不整然にピンで貼りだされた沢山の写真をめぐりながら、1983年、自分は何才で、何をしていたのか?などと振り返ったり、自分も行った展覧会や見逃したものなど、記憶をたどりながらの観覧は楽しいものであった。また、図録には一枚一枚の写真に安斎氏のコメントが一、二行ではあるが添えられていて、楽しさを増幅させてくれた。図録見本が会場内のソファに置かれてあったので、座り込んでほとんどその場で読んでしまった。

3000点すべてを注意深く見たわけではないが、だいぶ目が疲れた。
すでに読んでしまった図録を出口で購入し、一階のカフェで腰を下ろし外を見ながら休んだ。
〔やはり、現代美術とは“行為”なんだあ〜〕という感想がわいて来た。
以前からそのように思っていたが、膨大な記録を見て、やはりと合点した。

“行為”は物として「残す」ことを意識しない、意図しない。それよりも現状に対してポジティブであることのほうが肝要ということだろう。結果的に美術館所蔵や個人蔵やらで「残る」ことになったとしても、それは制作時、発表時の前提条件ではないというものなのだ。現代美術の作品は数多くつくられ、発表されるが、数多く撤去、破棄される。であるからアーカイブでしか見れないものが多い。

また、「残さない」から、あるいは「残らない」から良いというものも多い。
例えば、建築を布で覆うクリストの作品なんかはそうだろう。
見慣れた建築や橋が大きな布ですっぽり覆われた姿を見た時の驚きはすごいに違いない。風にたなびく布がさぞかし美しいであろう。ただそれが「残される」ことになったら、どうであろう。日に炙られ、雨に濡れ、スモッグに汚れ…どう考えても美しくはない。一時であるから驚き、美しい。

面白い事に、私が美大を受験する頃の70年代には、大学案内の冒頭にはよく「人生は短し、されど芸術は長し」の文句が記されていた。永く「残る」物をつくれ、あるいは「残る」ものを創るべく、大学でしっかり学ぶべきだということが書かれていた。しかし実はその頃には「残す」ことを意識しない“現代美術”は始まっていたのだ。

消費社会が顕著になってくるのは、やはり70年代からだ。“もの”がつくられすぎ、あふれかえり始めた。人々の“もの”に対する意識も大きく変化した。“もの”は大量にコピーができ、入手も簡便となり、「長く大事」にから「買い替える」となった。「無ければ無いなりに知恵をしぼって…」ではなく、「買い占めてでも…」に変わった。“もの”は消費が終わればゴミとなる。
美術家のつくるものも、当然同じ“もの”としての一側面をもつ。作家の姿勢にも影を落としたろう。このことは美術のありかたにも大きな影響を及ぼしたのではないかと推理したくなる。

「残さない」美術は記録者、伝承者が関わり二次的、三次的な鑑賞をされうることもあると思えた。時を経て、ある作品が別の作家により再現されるということなども出てくるかもしれない。シェークスピアの芝居がいまでも再現されるように。何より記録媒体は写真ばかりでなく映像も十分ありえるし、公開の仕方もオンライン、オフライン引っ括め、そのスタイルは社会の変遷に合わせて、まだまだ色々でてきそうだ。

「残る」美術は従来通りどこかの所有、所蔵となり、機会に恵まれれば、鑑賞の対象となるのだが、どこの所有にも所蔵にもならなかった作品は、“もの”としての運命が待ち受けているわけだ。つまり「消費」が終わればゴミとなるのだが、「消費」を拒んで創られたものたちはどうなるのだろう?


kanazawa

画像は「安斎重男の“私・写・録”1970-2006 図録」
| 続/作品の行方 | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 今村仁司先生
imamura

今月5日に今村先生が亡くなられた。
ショックだった。

ようやく新作の完成も見えて来たので、できあがったら写真に撮り、
それを手みやげに訪問しようかと思っていた矢先だった。
年賀状にもそのように書いて送った。

3年前の4月、研究室にお邪魔した。
新作について先生にお願いがあってうかがったのだった。
私のつたない作品についての説明を注意深く聞かれると、
すんなりご承諾いただき、ベンヤミンをからめて様々な話をしていただいた。

そのつい先日まで入院されていたので、ご体調がきがかりではあったが、
お元気な様子で、話があまりに面白く、ついつい長居をしてしまった。
確か、直前に岩波から清沢満之の本を出された時期であったこともあり
浄土真宗や親鸞の話もされていた。

今村先生の本を始めて読んだのは、『群衆-モンスターの誕生』だった。
「面白く」熱中して読んだ。以来、何冊か先生の著作を買い求め読んだが、
『近代性の構造』『ベンヤミンの〈問い〉』と並び、いまでも最も好きな本だ。

何のきっかけでダニ・カラヴァン Dani Karavanという環境彫刻家を知ったのかは
忘れてしまったが、そのカラヴァンがつくった「ベンヤミンへのオマージュ」が
スペインのポルト・ボウというところにある。ベンヤミン終焉の地だ。
残念ながら写真でしか見た事はないが、すばらしい作品だ。
死ぬ前に必ず行こうと思っている。
ベンヤミンのことは、その作品を通じてはじめて知った。

ダニ・カラヴァン→ヴォルター・ベンヤミン
今村仁司→ヴォルター・ベンヤミン
違った軌跡は同じ点の上で交差した。
いま、今村先生が訳されたベンヤミンの『パッサージュ論』を読んでいる。
3巻目に入ったところで訃報を知った。

図らずも研究室を訪ねたあの日が最後になってしまった。
あの時の約束を果たせないまま3年も時を送ってしまい、
今さらながら、自分の亀のような鈍さを恨めしく思う。

先生は多くの研究をなされ、多くの思想を紹介されてきたが、
それは常に自らが思索された「ことば」を用いてであった。
その残された「ことば」は、これからも多くの読者の中で生きて行くことだろう。

作品を見ていただく事はかなわなくなり、とても寂しいが
まだまだ教えていただくことは多い。

今村仁司先生について
http://ja.wikipedia.org/wiki/今村仁司

kara_okabe
2000年個展『失ったのは記憶、されど行く』
大雨にもかかわらず会場に足を運んでいただいたことを、よく思いだす。


| 続/作品の行方 | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
種の存在を強く感じさせる-慶南にて
蔡峻展会場


まだ慶南での話はつづく。忙しすぎて話がなかなか進まない…

開催されていた4つの春季展のうち、
美術館で一番大きなスペースを使い展示されたのは、蔡峻展だ。
在日コリアン美術家の韓国での大規模な個展は、これがはじめてであろう。
会期も残り2週間となった。

蔡峻先生は、この美術館のある慶尚南道昌原市で、1926年に生を受けられ、
幼児の頃に両親とともに日本に渡ってこられた。
蔡峻先生についての紹介、作品については、他のHPページに譲るとして、
先生と接していて、いつも思う事がある。

それは「美術家に生まれついた人」だなということだ。
もとより美術を生業にできる人など、そうはいない。
先生も生業では、長く新聞に政治風刺漫画を描いてこられた。
それは幸か不幸か、決して素養に合わないものではなかったようだ。
その証拠に漫画は非凡な水準のものではなかった。

しかし、先生の持つ創作力は、その枷の多い分野に甘んじる事は許さなかったようだ。
それを強く感じさせたのは、1997年の個展の時であった。
なんと71才のときだ。
一般的に言えば、「できあがってしまった」年代だ。
いや、「とうにできあがって、そろそろ風化しはじめる」年代だ。
ところが、その創作力は「今が盛り」といえるほどの勢いだった。
長く閉じ込められたものが、吹き出したような印象を強く受けた。

驚き感心している私を尻目に、
先生は何かに焦っていられるようでイライラされていたように見えた。
きっと、次々と沸き上がってくる作品のインスピレーションを、
物質化ー作品化するのが間に合わず、もどかしく思われていたのだろう。
いまから思えば。

もちろん、その年のずっと前から、幾度か個展やらグループ展などは
されてはいたが、堰を切ったように蔡峻世界を思い切って見せたのは
この時が始めてではなかったのだろうか。
それ以前の事をあまり知らない私には、そう思えて仕方が無いし、
先生自身もあまり語りたがらない、あるいは覚えておられないのは、
そうであることを裏打ちしていると言えるだろう。

人は誰しもそれぞれの「種」を持って生まれてくる。
種は開花したり、実を付けたりするが、そうでない場合もある。
その種が人の運命を左右するのか、人が種の運命を決定づけるのか、
良く分からない。
先生は「種の存在」を強く感じさせる人でもある。

蔡峻に関するWebページ
http://www.areum.org/home/abcd/c_artist/chae_jun/chae_jun.htm


蔡峻展の告知ページ
http://info.areum.org/?eid=609548



蔡峻盧
| 続/作品の行方 | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
脳裏に故郷の記憶はまったく無い-慶南道立美術館
museum

美術館は高台に建てられていて眺望がいい。
ただ南向きでおまけに総ガラス張りときているので、あまりにも日当たりが良すぎる。
展示室には当然日の光が差し込みはしないが、私の作品を展示したところは、
建物から張り出したガラスの空間で、朝日から夕焼けまでも拝めるところだった。

暑いのでTシャツ一枚になって設置作業を進めたが、
どうも空間がきれいすぎて、明るすぎて落ち着かない。
大理石のピカピカの床や壁、ガラスの空間、差し込む日差し…

3年前に作品を美術館に送る際、とりたてて何の条件も付けなかったが、
当時の担当したチャン学芸員に、ひとつだけ「お願い」をしてみた。
学芸員とのやりとりはこんな感じだった。

「作品を展示するとすれば、本来の形が望ましいのでしょうね?」と私

『本来の形以外にもあるのですか??』とチャン学芸員

「できれば作品を埋めたいんですよ」

『??..はあ…』

「いやあ、まったく埋めて見えなくしてしまうという事ではなく、
半分くらい埋まった形にしたいのです。廃墟に半ば埋まっているもののように」

『………』

「室内は無理でしょうから、野外でいいんです。
ただいわゆる野外彫刻というのとは違いますから、できれば館の脇とか、裏とかで…」

『それでは踏まれたり、壊されたりという心配がありますね』

「壊されたり、踏まれたりしたとしてもそれはやむを得ないんですよ。
それよりも現在の作家の心情としては、そういう形が一番いいと思うのです」

『でも作られたときは、そうではないわけでしょう。
本来の形が望ましいと思いますが』
チャン学芸員は明らかに困惑していた。

他の事の意思の疎通は何の問題も無かったが、やはりうまくは伝えられずに別れた。
今、思い返すと、私自身が作品を埋めるという事について、その時点では
まだ考えを整理できずにいたので、それをうまく伝えられなかった。

今回、担当してくれたイ学芸員とも、そのことについて話し合ってみた。
何となくは理解できたようだ。少なくとも理解しようとはしてくれた。
私の説明も3年前よりは説得力をもったのかも知れない。
彼は私を伴い、美術館内の候補になりそうなところを回ってくれた。
ただ、あまりにも時間が無さ過ぎた。
今回はここでやって、のちに考えましょうという答えを互いに出した。

なぜ95年までの作品を埋めたのか?
そして、それらの作品を故郷の(正確には、私の父の故郷の)美術館に送り、
どう展示し、何を見極めたかったのか?
作品を埋めるとはどういうことなのか?
その先はどんなことが見えてくるのか?
それをこれから少しずつ解き明かして行くのが、私の課題である。

温室のような、私の展示コーナーも夕闇が迫って来た。
日が傾き、ガラスの向こうの風景も視野に入りやすくなった。
一人、「まるで露天風呂のようだなあ」などとつぶやきながら見入った。
『道』と名付けられた作品の向こうに見える山々は、まぎれもなく故郷のものだ。
それなりの感慨も湧く。
しかし、五感や身体はともかく、脳裏に故郷の記憶はまったく無い。


road
| 続/作品の行方 | 14:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
韓国、昌原市、慶南道立美術館
kyongnam_mu


今月中頃、韓国に一週間ほど行っていた。
昌原市にある慶南道立美術館での展示があったためだ。

昌原市などと言っても、ピンとは来ないだろうが、
釜山近郊といえば、何となく分かってもらえるだろう。
「道」とは、北海道の「道」と同じで「県」に値する。
慶尚南道の道庁所在地で、その道立美術館というものだ。

この3月始めから春季展が開催された。
蔡 峻展
所蔵作品「風景」展
エリザベス・キース展
ヒューゴ・バスティダス展 という内容だ。

この中の、所蔵作品「風景」展の一角に、
私の作品3点を展示するというので設置のために行って来た。
私の他は、みな風景を主題とした平面作品ばかりだが、
展示される場所は異なるので別に違和感はなかった。

それに、ずっと「風景」というものに関心を持ちつつ、
制作しつづけてきたので、形骸は全く異なるが、企画意図から
外れたものではなさそうなので、どうにか領域内だろう。
作家個人としては、本望達成とまでは行かなかったが、
道筋にそったかたちになった。

なにより喜ばしいのは、
ようやく「作品の行方」を進める事ができるようになり、
宙ぶらりになっていた『風景の行方、作品の行方』も
少しは締まりのあるものになりそうなことだ。

『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.org/は、
95年までに制作された作品を土に埋め、その上に00年までに制作した
作品を配したインスタレーション『世紀残像』(原爆の図 丸木美術館)から
話が始まっている。
このとき埋められた作品のうち3点が、03年に慶南道立美術館に引き取られた。


3work_kyong

| 続/作品の行方 | 16:27 | comments(0) | trackbacks(1) |
建畠先生の訃報
たてはた
建畠覚造先生が2月半ばに亡くなられたことを、つい先日の新聞記事で知った。
門下ではなかったし、お目にかかったのも数えるほどしかなかったが、個展時にはわざわざおいでいただき恐縮した。自作を語られる時も、私の作品について語られるときも言葉数は少なかったが、静けさの中に揺るぎのない強さが感じられた。妙な言い方だが、「ありがたい」といった感を受ける希有な方だった。心よりご冥福をお祈りいたします。ー画像は『戦後日本のリアリズム』カタログに掲載されている建畠先生の作品写真

彫刻家を志した学生の頃、建畠先生は戦後彫刻界を支えている太い柱のお一人であった。私の世代からすると「師の師」世代であり、直接的ではないがかえって純粋な内容で、彫刻への思い、考え方、作品への向かい方などを学び、自分の真っ白な頭の中に現代彫刻の概念を形成する礎となった。

降り返ってみると、先生の世代の彫刻家は、「哲人」とも呼べる人が多い。おのおの作品スタイルこそ違え、彫刻とは「心」の塊(かたまり)、「精神」の構築物といったことを目指されてきたと思える。学生時代から30年を経た今、そんな実感が湧き上がってくる。

「哲人」彫刻家達は、表現において「饒舌」を嫌い、出来る限り無駄をそぎ落としたものを良しとした。確実に”気風”と呼べる流れをこの風土に作り出していた。気風は次の世代へ、時にその心髄を、時に形骸だけが、影響を及ぼし、多様にそして多数に受け継がれた。加速度のつきだした社会の変容と共に。

大学を卒業する頃は、まだ地鳴りを聞く程度だった”消費社会”は、やがて噴火の如く噴きあげた。あおりは彫刻の世界にも波及した。一般からは縁の遠かった彫刻も、街の中に出始めた。広場や公園、駅前ロータリーに置かれ始め、野外彫刻展も全国各所で行われた。溶岩はやがてバブルとなった。大手デペロッパーも”彫刻設置”に乗り出してきた。この頃に「彫刻公害」などという言葉も現れた。つづく
| 続/作品の行方 | 19:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
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