行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
ウェブサイトの整理
 

 だいぶ涼しくなった。あの夏の暑さ、熱さに比べれば随分しのぎやすい。
 暑い盛りは、制作はおろかパソコンの前に座っているのも嫌で、時間があれば本ばかり読んで過ごした。 

来年の夏もまた同じように猛暑の連続なのだろうか? 
多少の変動はあるだろうが、数十年単位で北半球は「暑い熱い夏」になるような気がしているが、どうだろうか?? 

予想が本当になれば、地球にとっての小さな変化は、ヒトだけでなく生物全般にとってとてつもなく大きな変化だから大変なことになる。人類史の主舞台だったユーラシアの歴史さえも大きな影響を受けるに違いない。

 かといって、取り立てて何をどうするということも出来ないので致し方ない。
 ようやく涼しくなったので、とりちらかった身辺の整理でもして、自分が先に進む用意をするだけだ。 

窓を全開にし風を入れ、後回しにしてきたウェブサイトの整理をすることにした。
 まず、95年に開いた展覧会の写真をページにした。『現代を思ふ、土に想ふ』展 

1995年12月に開いたこの展覧会は、10年ほどの間に、ぼつぼつ造った作品から残したものを展示したものだ。 

当時はまだ、デジタルカメラは普及しておらず、当然画像加工を自分がすることなど現実的ではなかった。もちろん金を出せばいくらでも可能ではあったが、立体作品の撮影はかなり面倒でむずかしく、ご近所に住む写真家井出貴久さんに無理を言って撮ってもらった。

今回その写真を新たにスキャンしなおしデータとした。 あれから十五年、それなりに前に進んで来て、高度が上がったから息苦しくなって来たのか、単に息が上がって苦しいのかよくわからないが、歩んで来た道のりを確かめる意味でページにした。

こういうケースの時はiPhoto→iWebというのは実に便利だ。 

ついでに、ro21.orgのインデックスページを、文字通りインデックスとして、サイトマップとして更新しておいた。r o 2 1 . o r g ノート 

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| 続/作品の行方 | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
鉄色の、鉄の匂いがする風景 小説『レディー・ジョーカー』
tatsuiro


焼き殺されそうな酷暑が幾日も続いている。
陽が傾き始める頃だというのに、電車の窓から差し込む日差しは強烈だ。
冷房の効いた車内の一番隅の席に座り小説を読む。駅に停まるたび本から目を外し駅名を確かめた。
乗換駅まであとふたつ。最終章の残りページはあと二、三十ページはあるだろうか。

乗換駅に着くと、しおりの代わりに指をはさみ、本を手に持ったまま乗り換え通路にあるカフェに入った。ここでそのまま残りを読み切ることにした。手に持っていたのは新潮文庫『レディ・ジョーカー』下巻、指を挟んでいたページは426ページ目だ。上、中、下巻の三巻構成で一冊がおよそ500ページという長編だが、ようやくそのゴールが近づいてきた。

この数年、小説というものをまったく読んでいなかった。年に一度ほどは何らかしか挑んではみるのだが、その創作世界に浸りきる事ができずに途中放棄するものばかりだった。読める、読む本は圧倒的にノンフィクション類が多く、どうも「お話」を読むことができずに、自然と小説から遠のいていた。

それでも高村薫の小説は、十年以上も前になるが、『リヴィエラを撃て』『マークスの山』と読んだ記憶があり、ある程度の期待はあって買ってみた。

『レディ・ジョーカー』 読み始めてすぐに「鉄色、鉄の匂いー風景」という語が浮かんだ。「鉄色、鉄の匂い」とは、鉄さび、鉄にペンキを塗ったもの、あるいはそのペンキが排気ガスなどで汚れ、雨だれの跡が錆びたもの、くたびれたトタン、ダンプが舞い上げるほこり…そういった感じだ。上巻の舞台となった品川、羽田、大森、蒲田といったあたりは、鉄色、鉄の匂いが一段と濃かった地域だ。

作者もそして私も「鉄色の、鉄の匂いがする風景」の中で育った世代だ。高村薫氏は1953年生であり、私は55年。終戦からおよそ十年で生まれ、高度経済成長ともに成長、瓦礫色の風景はみるみる鉄色と変わっていき、そこかしこでド〜ンド〜ンと杭打ち機の音がとどろいていた。

幼児の頃に新宿発の蒸気機関車に乗り甲府まで行ったという話をすると、あまり信じてもらえない。なぜなら小学生時分にはもう新幹線が開通した。アポロ11号によってもたらされた月面の映像を見たのは中学生だった。

経済成長とともに、鉄色、鉄の匂いは瞬く間に風景全域を覆ったが、すぐにアルミ、ステンレス、チタン、ガラスなどの「ひかりもの」がそこかしこに沸々とあらわれた。ポストモダンやメタポリズムといった言葉が風に舞い、“現代”彫刻家たちもこぞってステンレスの箱のような作品をつくり磨き上げるのにいそしんでいた。

昼夜の境界もあいまいとなり、季節の移ろいも感じにくくなり、まごまごしているうちに、この世界の「陰となったものたち、陰とされたものたち」は、いつのまにか暗い谷底へと突き落とされ、気がつくと似非クリスタルな風景が無関係にそびえていた。
そして、それらは今となっては巨大な墓石群のように見えたりもする。

戦前、東北の寒村出身でかろうじて大手ビール会社に就職した岡村という者が、復員してきて職場復帰したものの、すぐにそこを退職することとなった。その顛末を書き記した昭和二十二年の文章を、ビール会社へ送ったことから始まるこの小説は、企業小説、警察小説、推理小説などと呼ばれはするが、瓦礫から鉄色、似非クリスタルに至る風景の中を、蟻のごとく生きた人々の物語だと、私は読んだ。

一見、意図不明なその昭和二十二年の文章の中に、こういうくだりがある。
《一つは人間であること、一つは政治的動物ではないこと、一つは絶対的に貧しい事です。實にそのことを云ひたいために是を書くのです。……。たゞ此の世に生まれた意味を今以て理解しかねている一人の人間が、この先成仏せんがために書くのです。》

それは、一人のナマの人間の声なのだが、企業論理からすれば、あまりにバカバカしい内容、読むに値するようなものではない。小説は、企業、組織、そしてそこに蔓延るトラップ網でできあがった社会に生きるナマの人間達の葛藤、生きる意味を問わなければならない不幸がテーマになっている。

事件に関わりながらも捜査の一線から外される合田刑事、被差別部落出身で息子を亡くす秦野裕之、闇の世界を追う新聞記者根来史彰、事件の首謀者で生涯工員だった物井清三、犯人の一人である在日朝鮮人高克己など多くの大枝小枝をはり巡らした物語で、看板としては合田が主人公なのだが、あえてあげるなら物井を裏返しにした存在、ビール会社の社長城山恭助に思いが残る。

大手ビール会社の社長として日々奮闘している城山は、カリスマでもなく暴君でもなく、〈企業を率いている経営マシン〉であるが、事件に巻き込まれ、悩みもがくその姿は、大企業の社長と言えども蟻一匹として描かれている。事件はマシンを揺るがし人間としての揺らぎが訪れる。

事件はかがり火となって闇社会を照らし始めるが、それを追う新聞記者根来の「眼」が作品の主調となっている。
《根源も論理も必然も欠いたまま、天皇とか、民主主義とか、差別といったそれぞれの塊は、いまや車の排気ガスやカラオケの騒音に混じって、時代の只なかに不可視の綿埃(わたぼこり)のように漂っている、と根来は思う。その上をJRの電車のまばゆい明かりが走り、彼方の夜空には、東証株価の一万六千円台の乱高下や、日之出ビール社長誘拐六億伝える広告塔の電光ニュースがぴかぴか光り、高架橋の下を行く雑踏の蹴散らした綿埃は、その辺で吹き溜まりを作っているのだ、と》…中巻

日之出ビール社長誘拐云々というのは、物語に合わせたものだが、ここは秋葉原無差別殺傷事件でも幼児虐待殺人事件でも、何でも良い。まばゆい風景の中を、人々の思い、情念、拘り、信条、志向などが綿埃となって漂ったり吹き溜まったりしている…秀逸な描写だ。

こんなくだりもある。
《付け狙われているという圧迫感は、それほど先鋭でもなかった。それよりも根来は、自分自身の心持ちのほうがはるかに茫々としているのを感じた。具体的な一つ一つの事柄ではなく、自分を包み込んでいるこの時代と社会のトンネルはどこまで続いているのか、もういい加減、空を見たいといった漠とした息苦しさだった。振り返っても後ろには何もなく、行く手にも何もない。ああ、ろくでもない人生を送ってしまったと独りごちると、急に一杯やらずにはおかれない気分になった。》…中巻

これは根来の個人的な状況からくる心情だけを言っているのではない。〈自分を包み込んでいるこの時代〉を見つめる者、見つめようとする者がやむなく陥る絶望感、虚脱感だ。

物語は勝者も敗者もなく終わる。
物語の狂言回しは「カネ」であるが、作者は「カネ」を得て、なおも人食い鬼のごとく修羅の道を生きる者どもへの言及はない、「カネ」は強請ったけれども、それが目的ではなかった奇妙な者たちの行方で幕は閉じる。それらの行方に不満足はなかった。大枝小枝のはった大木の姿が、ありのまま心に残った。

この小説のモチーフとなったのは、『グリコ森永事件』だという。あの事件が起きた頃は、事件そのものにたいして関心はなかった。この本を読み、改めてあの未解決未解明事件を知り、小説以上の深い闇に言い知れぬ戦慄を覚えた。

この記事は別ページにもしてあります。
http://ro21.org/page/lady.html

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| 風景の行方 | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
“抗い”は流れをあぶり出す
10.5.21


”忙殺”という語、何気なく使う事が多いが、しげしげと見てみると凄みのある字ズラだ。このところ殺されるほどではなかったが、窒息しそうにはなった。タスク、些事、煩事ひとつひとつに気を取られているうちに、いつしか頭の窓は閉まったままとなり、淀んだ空気が立ちこめていた。

日々の暮らしを楽しむようにと思ってはいるが、そううまくはいかないものだ。気がつくと、自らが作った「日常」という壁、いやもしかすると誰かがこっそり作り出した「日常」にべったり貼り付いてしまって余裕を失っている自分がいる。

そんな時はやはりリセットが必要で、人が旅に出るのは、おそらくそのためだ。
旅に出る事がかなわないなら、身近で同じ作用をしてくれる”何か”を見つけなくてはならない。この間も隙を見ては展覧会情報などを眺めてみてはいたが、どうにも食指が動くものを見つけられない。

それでも上野の科学博物館でやっている『大哺乳類展』はなんだか見てみたくて、なるべく空いていそうな平日を選び行って来た。いい展示だったが、期待しすぎたせいなのか、もの足りなく感じた。そのせいなのか、館を出るとき何故かライオンのぬいぐるみなんぞを買って帰って来てしまった。以来こいつは居間のソファに寝そべっている。

五月の連休は一時的に夏日になった。
冬終わり、春が来たのではなく夏になったような陽気だった。
あまりの暑さに戸惑い、外に出るより、散らかっていた机の上やら仕事場を片付けた。郵便物の束からハガキが出て来た。展覧会のDMだ。
写真の上に『ドロの舟と、』の赤い文字、「大矢りか、野外作品写真展」
「そうだった」と二日後にでかけることにした。

10.5.21a


会場は神保町、神田古本街。
周辺で面白そうなものがあれば、他も見に行こう。
ギャラリーの情報などは、おそらくツイッターなんぞがいいかもしれないと検索してみる。
いくつかアート情報のツイッターページが見つかったが、告知ではない感想口コミのものは見つからなかった。

展覧会情報などは『よかった!』などの一言でも充分だから、告知でないものがあるといい。そういうものばかりがツイートされているページがあれば便利だろうに。もしかするともうあるのかも知れないがツイッターそのものをやっていないので、いまいちよく探せない。

ネットの中をうろうろ巡っているうち、カロンズネット(現代美術のウェブマガジン)の情報欄で「青野正」の名前が眼に入った。
青野さん、本当に久しぶりだ。十数年ぶりだ。
展覧会タイトルは『テツモジ』。銀座五丁目にあるギャラリーだ。

御茶の水駅で降り、神保町に向け歩く。
新築されたビルも多くなり、昔の面影が失われつつあるのは残念だが、世界一の古書店街はまだまだ健在のようだ。ぶらっとひとつの書店に素見し(ひやかし)で入った。学術書の背表紙というのは、書棚に鎮座しているだけで言い知れぬ迫力がある。それが幾重にも並んでいる姿には圧倒される。

『奈良朝服飾の研究』『神語りの誕生』『韓日昔話の比較研究』『ロシアの神話』『中国古鐘の研究』…分厚く重そうな背表紙の文字を読んでいるだけで、頭の中を色んなものが広がっていく。デジタル時代まっしぐらだが、こういう古書店の有り様は無くなってほしくない。
”実”があってこその”写し”だ。

大矢さんは、このところ海外ー韓国、オーストリア、オーストラリアなどでの野外制作展示が続いているようだ。ドロや木、藁などの自然素材を現場で調達し、それらを用いて舟の形をつくり、展示している。作品はその場で朽ち果てて自然に帰って行くまでの過程を包含している。おそらく作る意思や意味よりも、作られたモノ(舟として表わされた)たちが、土に還っていく姿、時間を作品としたものと思われる。

当然ながら、神保町の会場(クラインブルー)ではドロ舟はなく、現場の写真が展示してあった。
「当然ながら」と書いたが、もし神保町あるいは都心のギャラリーなどでこの舟を出現させようとしたら、それはまったく不可能ということではないだろう。かなりの苦心と運に恵まれれば可能だ。しかしドロ舟がそこで朽ち果て自然に還っていくことはできない。展示期間が終われば“ゴミ”として処分される事になる。それでは作家の意図とは正反対で醜い。

土に還り残らぬ美術、文明へのアンチテーゼ。
いかにそれを記憶として残すかが課題だ。今回のような写真による展示、それも答えのひとつだろう。

地下鉄を乗り継ぎ銀座へ。
青野さんの展覧会はShowcase/MEGUMI OGITA GALLERYというところだ。
始めて行くギャラリーで、うまく探せなく電話をして聞いた。

手すりの無い狭い階段を四階まであがった小さなホワイトキューブスペース、ショーケースとはうまい名前だ。その小さなホワイトキューブの壁全面に、小さな鉄の像が張り付いている。
トンボ、熊のぬいぐるみ、ピストル、人々…色んな小像が象形文字のように並んでいる。
おそらく作家に聞けば、鉄文字で書かれた物語を読み解くことができるだろう。

たくさんの小さくかわいいテツモジ達、だがそれらは鉄のもつ荒々しい表情をむき出しにしている。
撫でたり握ったりすれば手が痛む。GINZAの居並ぶ海外高級ブランドビルに挟まれるように建つ細くて古いビル、その小さなスペースに小さいが荒々しい鉄の像達が呪文を唱えるように並んでいる。なかなか良い風景だ。

ドロと鉄。
私たちの身近にありながらも、意識される事はほとんどない。
彼らは何故、流れに”抗う”ようにそれらを提示するのだろう。

世間ではピカピカ、キラキラ、スベスベ、とろーりとしたものが風靡している。言うまでもなくそれらは現実を覆う薄皮にすぎない。人々の関心、欲望、命運のすべてが”マネー”によって、末梢まで”支配”されているという現実の実相、実態を、それらをもって覆い隠そうとしている。それが今時の風の流れだ。

ラメ色きらめく街の風景。
整然と「日常」を生きる人々。
薄皮の下に眼を凝らせば、人々の膨れ上がった苛立ち、暴力衝動、絶望感がどす黒く横たわっている。溜まったエネルギーは時として、あらぬところに”裂け目”をつくり噴出する。
それを“事件”と呼ぶ。

ラジカルでもなく、エグくもなく、強弁でもないアート(美術)でも、良心的な“抗い”を秘めているものはたくさんある。
“抗い”は流れをあぶり出す。そして変えて行く…そう信じたい。

10.5.21b



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| 風景の行方 | 17:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
寝そべって何を見つめ何を思っているのか
lion


このところ気温差が激しい。
まだ春先だというのに、日中シャツ一枚ですごせる陽気になったかと思うと、夕方から風向きが変わり、突然真冬の寒さになったりだ。それにあわせて体調がおかしくなるので困ったものだ。

冬の終わりに暖かい日が数日あると、身体は「春が来た」モードになってしまう。新作にとりかかったのは、3月半ばの暖かいある日だった。
丸太をいきなりノミで彫り始めた。午前中から始め、暗くなるまで木槌をふるっていた。調子に乗りすぎてオーバーワークになった。疲れたなと思った矢先、寒さが戻って来た。

「急に寒くなったり暑くなったりすると葬式が増えるんですよね」
こんな話を聞いたのはいつだったか。うわの空で聞き流した頃は、こちらもまだ若い時分だった。最近、この言葉をちょくちょく思い出すから悲しい。

環境考古学者の安田喜憲先生の本によると、
地球というのは人間にとってそんなに生易しい相手ではないそうだ。
「ないそうだ」というのは間抜けな言い方だが、我々が生まれ育ち現在生きている地球の環境というのは比較的安定している時期であり、気候とはこんなものというのは認識不足もいいところのようだ。

いまから3000年前から2800年前(紀元前1000~800年)の地球はかなり寒く、生きるのに大変だったようだ。日本で人気のある古代エジプト、その王国が下り坂になる時期が、丁度その頃だ。

エジプトの末期王朝は紀元前500年頃で今から2500年前だが、世界的な気候悪化期の末期で、「飢饉や疫病が流行して難民が生まれたり餓死者が出て、多くの人々にとって地獄のような時代だった。そのストレスが極大に達した時代にイスラエルの予言者やソクラテスや釈迦や孔子が登場し、人々を救済したのである」※

おおいにうなずける。まったく私たちの生活はわずかな気温の差で、大きなダメージを受けるものだ。現在、野菜が高値になっているが、これは2月の気温が低く育ちが悪かったり、温室栽培の場合、燃料を使ったためだ。

夏の盛り、気温が体温を超えると危険な状況になる。気温が数度も違えば色んなところに弊害が広がる。おそらく数度程度の振り幅は地球という星ではありうべきことだが、人間にとっては大変なことになる。

巨大地震も地球にとってみれば瞬きほどのことだが、その上で生きている生物にとっては大変なことだ。それこそ、くしゃみなんかされた日には、すべての生物の存続さえ危うい事態になることだろう。

このところチリ、ハイチ、メキシコとアメリカ大陸での地震が続いていて不気味だ。地球規模の何かが起こる前兆なのだろうか。
地球の在り方が人間の運命であることは間違いない。

体調が悪くなった時は何もせずじっとしているのがいい。
ライオンなどが、サバンナでじっと寝そべっているのは、きっと夜の狩りのために休んでいるのだろうが、一体何を見つめ、何を思っているのか気になるところだ。
疲れて疲れてどうしようもない時は、ライオンを見習い寝そべってゴロゴロしているのだが、何かせずにいられないのが人間の悲しい宿命だ。寝そべってできること、新聞や本を読む。テレビを見る。できることはこんなところだろう。

「BBC地球伝説」というテレビ番組をよく見る。
自動で録画してあるので、寝そべるときはそれをよく見る。面白い回もあり、退屈な回もある。眠れぬ夜に見てると必ず眠気がやってくるので、便利でもある。

先日『ヒューマンジャーニー 遥かなる人類の旅 始まりの地アフリカ』という回をゴロゴロしながら見ていた。
人類の故郷はアフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)であり、ホモ・サピエンス(現世人類)に進化したのが、20万年ほど前で、その中のある一群がアフリカから出てアジアに、そしてオセアニア、ヨーロッパにと拡っていったそうだ。

この一群というのは、ほんの数百人単位であった。このことは世界的な遺伝子調査で明らかになったという。つまりアフリカから出たほんの一握りの人々が、いまの全世界70億人の先祖ということらしい。
驚きだ。にわかには信じがたいが…

アフリカから移動した一群、色んな状況、様々な環境に出会っただろう。状況に応じ、環境に対し、一群の中では「行けるところまで行こう」と移動した人々、あるいは「ここが良さそうなのでここに残ろう」という人々に分かれただろう。進んでは分かれ、進んでは分かれ、世界に広がった。
「行こう」と「残ろう」人類の歩みはとどのつまりこの二つの行動原理しかないようだ。

この最近の遺伝子調査で分かったことは、ミトコンドリアDNAという母親→娘にしか遺伝しないものを調べていくと、全人類は20〜10万年前のアフリカのある一人の女性に行き当たる。この女性のことを「ミトコンドリア・イブ」という名前で呼んでいる。
この名前、まるでこの一人の女性が全人類の母のような印象を与えるが、実はそうではない。実際は、幸運にもこの女性の遺伝子が女系途絶えること無く全人類に広がったという事なのだが、まったくまぎらわしいネーミングだ。

番組は進む。
アフリカの北は砂漠が広がり北上できなかったが、気候変動により海面が下がり、現在は30キロあるアラビア半島との海峡、マンダブ海峡も10キロほどに狭まり渡れるようになった。そしてアラビア半島の海岸沿いを伝って北上しペルシア湾の北に出た。こういう流れだったが、このペルシア湾周辺を、”エデン”と呼んでいたという結びには、鼻白んだ。

まあ、テレビが厳密な事を言っていたら番組にはならないので仕方ないかとも思う。テレビを前に据え、机に向かって視聴している人はほとんどいないだろう。
大抵ソファに座るか寝そべるか、新聞片手にみかんののったコタツに座っている人が大半だ。テレビ誕生以来、幾百、幾千万の番組が、世界中の家々のリビングやダイニングに流れ込んでは消えていった。
いまでも基本的には同じだ。

ただこのところ、少し趣きが変わって来た。
寝そべってテレビを見ているとき、疑問に思った事、調べたい事をすぐにネットで検索してみたい時がある。あるいは新聞や本を見て確認したい事がある。
できなくはない。ソファやベッドの傍らにノートPCを置いておくという手もあるが、実際は面倒だ。
やはりというかまだまだというか、パソコンというのは机が一番だ。
最近のテレビはネットにつながったりするのもある。でもパソコンに比べたらその動きは比ではない。新聞はたまれば捨ててしまうし、本は書棚の前でにらめっこしなければならないか、無ければ買わなければならない。

アップルが iPadを出した。
ネット閲覧ばかりか、新聞や本も読めてしまう。画面も大きく軽く“寝そべり型”にも、これはいけそうだ。(通信料はちょっと心配だが)

興福寺の阿修羅像を360度から拝観できる iPhone/ iPodアプリができたそうだ。もちろん iPadにも対応するだろう。知識や情報を得る方法、写真や映像を見るスタイルもますます変わっていきそうだ。
寝そべって阿修羅像を拝む、か… 何だかバチがあたりそうでもある。

ともかく端末、接続を含めてインターネット事情は、急速に大きく進化してきたし、進化しつつある。最先端にはほど遠い私個人の環境でさえ、大きく変わった。
わざわざ電話線を外してつないでいた頃、接続速度の遅さにあきれた。それがISDNとなり、光ケーブルとなった。一時は無線でも使っていた。もちろんパソコン自体の技術革新、OSからアプリケーションまでのソフトの発展は言うに及ばない。この十数年の進歩と言うか変化は、私たちの生活を変化させた。

この変化は個人のサイトを作りにも変化をもたらした。
少し前までは画像はできるだけ軽くというのが常識だった。接続に時間がかかるからだ。もちろん今でもその常識は生きているだろうが、接続環境は大きく変わり、また画像の容量を軽くするのが、手軽になったせいもあり、それほど神経質にならなくなってきた。
制約からすこしづつ解放されつつあり、自由になってきた。本を出したければ電子書籍という手段も現実となった。

今回、作品ページを試しにひとつ作ってみた。
『作品 [コギトの椅子] 大きな画像』というページだ。
1200×1252ピクセルという大きな画像を貼付けたページだ。大きくても画像容量は403 KBしかない。商業ページの広告画像と同じような容量だ。

2002年に作った初期のページでは、大きな画像と言ってもせいぜい500×375 33KB程度だった。『風景の行方、作品の行方』1ページ目


媒体が変われば表現のスタイルも自然と変化して行くだろう。やれること、できることを探していくしかない。私自身の行動原理は「行けるところまで行こう」のようだ。ノロノロだが…

私の作品も寝そべって、つらつら見てもらい、何かを思っていただければ幸いだ。

だいぶ前に作ってあった
作品『風景の箱』の動画もYouTubeに載せておく事にしよう。

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※ちくま新書『一神教の闇』安田喜憲著からの抜粋



| 風景の行方 | 13:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
流砂のような時間 映画『キャピタリズム』 
capitalizm

capitalizm



映画館を出ると、新宿の夜空に雪が舞っていた。
今年は雪が多い。
映画はマイケル・ムーア監督の《キャピタリズム 〜マネーは踊る〜》見終わった後味は「面白さ」と「物憂さ」が入り交じった気分だった。
原題は《CAPITALISM: A LOVE STORY》で、どちらかというとこちらのほうがいい。
お金を愛して愛してやまない人たちの物語。

映画は楽しめた。描かれている事実は憤りこそすれ、「楽しむ」という語は妥当ではないのだろうが、不穏当にも面白くみてしまう。この辺りがこの監督の“戦略”でもあるのだろう。

フィルムの中での進行役は監督自身がしているので、インタビューを受ける相手も、ついこの監督のペースに引き込まれている。ウォール街の金融機関の玄関前で袋を片手に「私たちの金を返せ!!」というパフォーマンスも監督自身がやっているのだが、警備のおじさんも憎めない相手に心から怒れないといった感じだ。

結論も分かりやすい。
資本主義は元来悪いものではない。「強欲」が悪いのだ。
疑問はもっているのだろうが、資本主義への根本的な批判は無い。
「強欲」に走れないようなシステムにすべき、というものだ。

映画宣伝のために来日した監督はテレビ番組のインタビューにも愛想良く答えていた。
聞き手の質問。
「あなたは映画で資本主義を批判している。それは社会主義がいいということですか?」
何とお粗末な質問だろう。
そういう質問が多くて、ムーア監督も辟易してたようだ。

資本主義と社会主義は兄弟関係にある。資本主義が勃興することにより、社会主義(共産主義)が発明された。ムーア監督が「あの頃はよかった」と振り返る彼の幼い頃のアメリカ資本主義は、ソ連社会主義との冷戦初期で激しくつばぜり合いをくりひろげた頃だ。互いが反面教師となり、相手より優れた社会であることを競っていた。

資本主義があからさま強欲獣、居直り強盗となりさがったのは、ライバルがいなくなり緊張感がなくなったせいだ。
社会主義の崩壊は、資本主義の勝利ではなく、共に衰退したと考えるべきなのだ。
社会主義も資本主義も「食い尽くし型」「独占型」という点では、まったく同じで、この文明は曲がり角に来た、このスタンダードはもう限界に来たということなんだ。

映画は、そんなことまではもちろん言ってはいない。
その点が見終わって「物憂さ」を感じるところだ。
昨年だったか『There Will Be Blood』という映画を見たが、まったく同じような気分になった。ふたつの映画のスタイル、内容は当然違うのだが、流れている思想が似ている。『There Will Be Blood』もいい映画で、印象深いシーンも多い。ただ「物憂さ」が下っ腹あたりにどんより滞ってしまった。

それにしても、ムーア監督の手段、手法がうらやましくもある。
自らが生きている社会について、素直な疑問や批判をありのまま「作品化」するということだ。
彼が描こうと目論んだことを美術=アート作品にしようとしたらどうなるんだろう??

ブッシュを白雪姫に、ゴールドマンサックス出身の財務長官等を七人の小人として見立てて、大きな陶製のフィギュアでも作ろうか?世界地図の形をした芝生の上にでも置いたらイケテルかもしれない。

あるいは、原寸二倍の大きさのドルや円、元(ゲン)の模造札をたくさんつくり、それを素材に豪華な部屋、家具、調度品を作ろうか?観客のみなさんにそのリッチな部屋で紅茶など優雅に飲んでもらうのも良いかもしれない。
実際そんなようなアート作品もある。

埒も無い想像だ。
バカバカしい。
しかしそんなバカバカしいことくらいしか、いまはできる余地が残されていないのかもしれない…

彫刻は、自らが生きている社会のありのままを「作品化」するのはむずかしい。
映画とは違い、長い時間の鑑賞に耐え得るものにしようとする「性根」のせいでもあるし、「生態」そのものがそれに適さないとも言えるだろう。

彫刻はありのままから、何ものかを抽出し、それを木なり石なりブロンズに定着させようとする。時間軸を使って導いて行く表現ではなく、時間そのものを閉じ込める表現だからだ。
流れの速い流砂のような現代の時間から、何ものかを抽出するのは至難だ。

流砂のような時間にそうように、美術も「商品化」「情報化」してきている。
「更新」は当たり前だ。
歩みが遅かったものも、いまや速成へと追い込まれている。
抽出している間に、新たな美術商品、美術情報が、ディスプレーを飾り、瞬く間に更新されてゆく。
更新に次ぐ更新。
果てしもない。

流砂に押し流されないようにするには、どうしたら良いのか?
便器の中の排泄物のように、レバーひとつで、流されてしまわないようにするには、どうしたら良いのか?
答えは簡単らしい。
「有名」になればいい……
周りを見渡すと、こういう答えを持っている人たちばかりだ。
「有名」は正しく、「無名」は無価値。
無名は排除される運命にある。流される運命にある。
こういうことらしい。

『キャピタリズム』の中で、ムーア監督は言う。
アメリカ人の多くは貧困や差別の中でも、不公平であろうが理不尽であろうが、「サクセス」を夢見ることにより生き抜いて来た。そうアメリカン・ドリームというやつだ。
結果、素朴にサクセス・ストーリーを信じて来た大半の人たちは、ほんの一握りの「サクセス」した人々により、騙されやがて身ぐるみはがされ、家からたたき出されることとなった。

そういう意味で映画のサブタイトルは、「マネーは踊る」、「A LOVE STORY」より「流されてしまった人々」でも良かっただろう。


風景の箱

上の写真/映画『キャピタリズム』のパンフ
下の写真/作品『風景の箱』内部
| 映像の風景 | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
腰痛記 ”酔い”はモンスターをつくりだす
10.1.31.c

朝、腰の痛みはまだ残っていたが、仕事には出かけて何とかこなして家に帰って来た。ソファに腰掛けてしばらく休んでいたが、痛みが段々ひどくなってきた。外はもう暗くなり始めている。病院に行くべきかどうかしばらく迷っていた。

座っていてもズキンズキンと痛い。寝るともっと痛くなりそうで、一旦横になったら起き上がれるかどうか不安だった。しばらく立ったまま新聞を読んだり、テレビを見ていたが、このままでは眠れない夜を過ごすはめになりそうなので、やはり病院に行くことにした。

数年前にも腰痛で診察を受けたことがあったが、ヘルニア等の病名がつくものではなかった。単なる『疲労性腰痛』。先生もはっきりしたことは言えないようだ。痛み止めの注射をうってもらい、鎮痛剤をもらい帰宅した。

ふーふー声を出しながら苦労して靴下を脱ぎ、なんとか着替えをすませると早々とベッドに横たわった。横になるのも一苦労だ。薬が効いているうちに寝てしまおうと、目をつぶりしばらくジッとしているが眠れない。寝返りをうちたいが腰を動かさないようにするのは不可能。そうこうするうち過去の腰痛歴のことが次と次と思い出されてきた。

二十数年前、子供達が元気に跳び箱を飛ぶのを見ていて、何となくやってみたくなり混じって跳んだ。馬鹿なことをした。着地と同時に、腰からバキっと音がして激痛が走りしばらく動けなくなった。帰路はやむなくタクシーに乗って帰ることになり、後部座席に寝ころばせてもらった。そのタクシーの運転手さんが腰痛持ちで、運転しながら腰痛についてのウンチクを熱く聞かせてくれた。

それからは、とにかく疲れがたまると腰痛が決まってやって来た。
次に腰痛に襲われたときには、ある人に整体を勧められて行ってみた。上半身をゆっくり回され、なすがままにされていると、突然ぎゅっとひねられ、ボキボキボキボキーッと雷が落ちたような音が背骨からしたのには肝を冷やした。その後も痛みが来るたび、整形外科にも、鍼灸にも行った。電気治療も受けた。二十数年の間に、嵐に巻き込まれるように何度か見舞われ,何度か治療を受けた。

ある時は、仰向けでもうつぶせでも痛くて横になれない、座る姿勢なら何とか痛みが少ないので、半月ほど毛布にくるまりイスで寝ていたこともあった。疲労で腰痛なのに、横になって眠れないため寝不足でなかなか回復せずに困った。あれは幾度目?何年前だったろうか…??
うつらうつらしながらも、当時の出来事が断片的に記憶の中で光を浴び浮かび上がって来た。

本当に忙しい時期だったが、不思議に煩雑で厄介だった実務のことはまったく思い出さない。脈絡無く当時出会った人達や話した時のことが浮かんできては消えた。めぐりめぐって眠りに落ちる直前はなぜか正岡子規のことを考えていた。

といっても、子規の何を知っているというわけではない。知っているのは司馬遼太郎の《坂の上の雲》と、漱石の書いた文の中に出てくる子規の姿だけだ。痛い痛いの連想から子規が浮かんだみたいだ。

《坂の上の雲》文中、病に冒された子規は本当に痛そうで痛そうで読んでいるこちらまで痛くなった。秋山兄弟の活躍、日清、日露、明治の日本をうまく表出した優れた小説で、そういう面で話題にされることも多いようだが、子規の痛さ、痛い子規の文学活動のくだりも、世間的にもう少し高く評価されていいのではないだろうか。

痛み、痛さを作品として、記憶として残しておくというのは重要なことだ。人は何でもすぐに忘れる。激痛さえも痛みがおさまれば忘れる。忘れるから前進もできるのだけれど、痛みを身体や心が発する「声」ととらえるなら、それを心に焼き付けておく何ものかが必要だ。

とにかく…朝が来て目が覚めた。
夜中に寝返りをうったのかどうか分からない。
寝床から這い出しテレビをつけソファーに座った。座れるようにはなったので、いくらかは回復したようだ。何とか仕事にでることはできそうだ。
テレビでは秋葉原連続殺傷事件の初公判について報じていた。

日曜の電気街の交差点、あれから600日も経ったのか…
追い込まれ、自らも追い込んだ犯人には、道行く人々の姿は自分と同じ多くの痛みを持って生きている存在には見えなかったに違いない。人も、看板も、店舗も、ビルも、ガードレールも、信号も、家族も、知人も、過去の出来事も何もかもが解け合い、自分以外は巨大な突撃すべきモンスターと見えていたのだろう。

身体性が必須な実社会は、その濃かった「つながり」がそこかしこで切断されるにいたり、あちらこちらで行き止まりになっている。
身体性なきネット世界の「つながり」は恐ろしいほどのスピードで拡張しているが、虚実はにわかに判断しがたい。
実生活とバーチャルの混淆はますます加速して行く。
ネットとバーチャル、これは乗り物酔いのような”酔い”がありそうだ。
”酔い”は時に、自身の網膜の中にモンスターをつくりだすようだ。

腰はまだ痛い…。


10.1.31b
腰痛の原因のひとつは長時間の運転のようだ。
運転席シートにこんなものを買ってみた。
ボディードクター バックアップ


| 風景の行方 | 18:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゆるい構え
09.12a

「早いな〜、もう今年も終わりだ」
と決まり文句のように、つい先日もつぶやいた。
こうつぶやいたりできるのも、この一年、大きな支障もなく何とか生きて来れたためなので、何ものかに感謝しなければならない。

正月には初詣に行く。特に信仰心があるわけではないが、世間を生き抜いて行くにはあまりに寄る辺が少なく、何ものかに祈念を一年に一度くらいはしたほうが良さそうだといった気分からだ。根は墓参りとさして違わない。草葉の陰や来世といったものを信じているわけではないが、墓にも参り、法事もする。

とかく「信仰心がないのに、初詣は神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は寺でする」と自嘲気味に、この国の人々の宗教との関わりが揶揄される。
そうなのだろうか??
信仰心が薄いのだろうか?

神社の数はおおよそ全国に8万ほどあるそうだ。社殿はなく鳥居と祠(ほこら)だけがあるといった小さいものも含めると20万とも30万ともいわれている。お寺も8万ほどあるそうだ。いずれもすごい数だ。そればかりではない、辻や岐路、道端などにある地蔵尊、道祖神などは、それこそ無数というくらい多いだろう。この数をもってして信仰心が薄いとはとても言えない。

なるほど、明治から終戦まで神社は国家神道として崇敬する事を国民に義務化していて、国家的に保護もされてきたようだ。ただその数が明治になってから急に増えたとは考えにくい。ひとつひとつの由来は様々だろうが、そのほとんどが百年単位で拝まれ、尊重されてきたものだ。あるものは江戸時代から、あるものは鎌倉時代から、またあるものは平安時代から、といったようにである。

逆に、明治といえば西欧近代化であり、合理的な街作りのために小祠や地蔵、道祖神などは邪魔だからどけてしまえと考えるのがオチなのだが、実はそうではなかったようだ。また、数が少なくなったとしたら、やはり終戦後とも思えるが、ときおりビルとビルの隙間の猫の額のような空間に小祠を見つけたり、高層ビルの屋上に新しい鳥居と祠があったりするのを見かけると、たとえ少なくなったとはいえ、数えてみれば予想を越えるもので、それはあなどれない数のような気がする。

そのように数多く残っている理由は熱心な宗教者、信徒がいたからだ、と鼻息荒く述べる人もいるだろう。否定はできない。
しかしそれだけではないだろう。
「信者ではないが尊重する」といった「ゆるい構え」の人々、あるいは「ご利益がある」や「バチが当たる」というほどの人々が星屑のようにたくさんいて、永く生き長らえてきたのだ。

元来、日本は自然崇拝、自然信仰の国だ。山、海、木、岩に神宿るといった心を持つ人々の住む国である。
山の麓にある神社、そのご神体は目の前の山という話は多い。生活するいろんな場に神がいるという人々の心根は、はるばる遠方から来られた神々の真偽を取りざた排斥するより、それらを承認し受け入れようとする方に自然と傾くのではないだろうか。「ゆるい構え」とは、そういった寛容な構えなのだ。

「ゆるい構え」は外来の宗教の独占、緊縛、親切の無理強い主義からすれば「信仰心が薄い」ということになってしまうが、反対に心の下地ともいえる自然信仰心はゆるぎないとも言える。《となりのトトロ》や《もののけ姫》はこの下地にダイレクトに訴えるものがあり、多くの人々に受け入れられた。そして映画達は海外でも広く受け入れられたようなので、日本以外でもこういう心の下地は存在しているという証明となった。希望はなくはない。

数百年というスパンでの歴史の軸や歯車を見直すべきときが近づいてきているようだ。私たちの暮らしや人生は、当然、軸や歯車の作り出した歴史時間の流れの中にある。その中を漂っているようでもあり、流されているようでもある。流れが大きすぎてはっきりとは分からない。そしてこの流れの少し先が滝へと連なっているのか、はたまた大きく旋回しているのか、これまたハッキリ分からないが、いままでとは大きく違うということだけは、確かに予想できる。

気がつけば何かをまっさらから始めるには億劫な年齢となってしまっているが、流れの変化を見極めつつ行動を起こして行かなければならない。
抱負ともつかぬ抱負を思う…年の瀬となった。
良いお年を。。


neko

上の写真/岐路にある馬頭観音
下の写真/猫の地蔵

| 風景の行方 | 18:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
心の底石
ikebukuro

酸素バーなるものが登場してだいぶ経つような気がする。
効果のほどは経験が無いのでなんとも言えないが、行く人の気持ちが分からないでも無い。

嗅覚は鈍いほうではないので、繁華街を歩くときや、車の往来が激しいところなどでは、
知らず知らずに息を抑えている時が多い。無意識のうちに粉塵やほこり、匂いを気にしている。
それに加えて、このところの新型インフルエンザの流行だ。
マスクこそして歩いてはいないが、心の隅でやはり気になっている。
混雑した電車の中で、なるべく人と向き合わないように注意している。

むろん意識的に息を止めたりしているわけではないが、日々の生活の中で、大きく息をする機会が少なくなっていることは確かだ。「呼吸不足症」などという語はないだろうが、そんなものになっているのかもしれない。森に行って深呼吸したいところだが、そうそう毎日森まででかけることもできない。こうした実は目には見えない、見えにくい事柄が、いまの私達の生を知らず知らずに脅かしているような気がする。

インフルエンザといえば、先月みんぱくの講演会でその話を聞いた。
講演されたのは、北海道大学大学院の教授である喜田 宏先生
演目は《人獣共通感染症をいかに克服するかーインフルエンザを例に》
正直のところ、知識が薄く内容をかいつまんで説明できるほどには理解できなかったが、
一般人が理解すればいい点をしぼってくれた話だったので、ままに聞いた。

頭に残ったのは、「鳥や豚などの家禽の感染症は、その家禽で封じ込める事が最も肝心」
…白い防護服を着た人たちが鶏舎を消毒する映像を思い出した。
「鳥や豚からインフルエンザなどがヒトに感染したからといって、すぐに高い病原性となることはなく、ヒトからヒトへの感染を繰り返すうちに高病原性となる。つまりバージョンアップしていくことが問題」
…インフルエンザウィルスとは本当にしぶとく強いようだ。

話の中で印象に残ったのは、インフルエンザの棲み家、本拠地が北極圏にある湖という話だった。インフルエンザは地球上に相当古くからいるウィルスらしく、それが北の湖の氷水の中にいるそうだ。ウィルスは熱に弱い。氷水は丁度ウィルスを冷凍保存している状態となっている。

その北の湖、そこにいるカモなどの渡り鳥が、冬になり越冬するため南下し、人里近くの湖にやってくる。人里が近い湖には、家禽であるアヒルなどもやってきて、カモの運んで来たウィルスに感染する。そしてアヒルと一緒に生活している鶏に感染、そして一緒に飼われている豚にも感染し、やがてヒトへと感染する。これがルートだそうだ。

以前、温暖化でシベリアの凍土が融け始めているという話を聞いた。
凍っていたいろいろなものが融けだしたら、どうなるのだろう?…


「感染」という語は、もちろん感染症からの語だろうが、文化の「伝播」というのも、語は違えど同じようなものだ。食、衣服、音楽、知識、情報、思想、そして美 これらは伝えられたというより「感染」していったという方が実際のニュアンスは近いと思う。

国立西洋美術館で《古代ローマ帝国の遺産》という展覧会が開かれている。
ローマ帝国成立期の繁栄、暮らしぶりを美術・工芸品やポンペイの遺跡から見せよう、というものだ。ポンペイのある邸宅の庭をバーチャルに再現したCG映像がよくできている。
生活に余裕ができたローマ「市民」は、別荘をもち、その別荘を古代ギリシア風の彫像や装飾で飾り、かわいい庭をしつらえ、古代ギリシアの哲学書を読んだりして時を過ごしたそうだ。

よくギリシア-ローマとひとくくりにした表現がされるが、ローマが古代ギリシアをお手本にしていたという意味と勝手に受け取っている。実際に彫刻等はギリシア時代のものから直接コピーしたものが少なくないようだ。ローマは「ギリシアかぶれ=ギリシア文化感染症」だったわけだ。

では、ギリシアはどこから感染したのか?
通説はエジプトらしいが、東地中海と考えた方がいいのではないだろうか。
エジプト、ヨルダン、イスラエル、レバノン、シリア、小アジア、ギリシア、クレタ島に囲まれた東地中海はいわゆる瀬戸内のようなものだ。ギリシアにポリスが形成されるはるか昔から海上交通は頻繁だった。様々な地域から、いろんなものがもたらされ刺激を受け、吸収し開花したのだろう。このあたりのことは、ゆくゆく突っ込んで調べてみたい。

西洋美術館に来たのは、ほんとうに久しぶりだった。
先日、古代ギリシア文化圏美術史を研究されている羽田康一氏の講義を聴講させてもらえる機会があり、それに触発されたからだ。

羽田先生の講義内容は古代ギリシアのブロンズ彫刻の鋳造法、製像についてだが「目からうろこ」といった話が多かった。そのひとつ、有名なデルフィー(デルポイ)の馭者像についても説明があった。四頭の馬がひく二輪の戦闘馬車(クワドリガ)の馭者の像だ。馬や二輪馬車は残っておらず、馭者像だけが残っている。見ているこちらも背筋がピーンとなってしまう静かな緊張感がたまらない名品だ。

その馭者像、相当な美男子だが、目(眼球)をまぶたに固定するためにマツゲを銅板でつくりはめ込んであるそうだ。目はオニキスでつくってあるという。気がつかないほどうっすら口が開いていて歯がついている。歯は銀の打ち出しだ。口が開いているというのも、今回始めて知った。
製法、材料、技術には、その時代の粋が結集されるものだ。それは史料として重要なはずで、こういう研究が他の文明文化においても一層発展し、横断的-縦断的検証が豊富になり、一般に接しやすくなればどんなにいいことだろう。

ローマは言わずと知れた大帝国だった。遺跡、遺品、文献、物語も多く。今回の展覧会でもそうだが、往時の生のリアリティは受け入れやすく想像しやすい。よって映画等の題材にも多く使われ、豊富なコンテンツゆえになじみもある。人間臭く近しい感がある。

一方、古代ギリシアは紀元前で、ローマに比べれば材料が乏しいということもあり、生のリアリティは実感しずらい。生活感として近しい感じを持つ事はできない。しかし文学、自然哲学、人間哲学、歴史学、彫刻、建築の礎はこの古代ギリシアなのだ。

彫刻だけを言えば、よりなじみあるローマ、その彫刻は残念ながらいただけない。それに引きかえ、人々や社会が実感しにくい古代ギリシア、その彫刻は文句無く素晴らしい。人間臭い”美”ではない、問答無用の”美”だ。否応を超えた”美”だ。

若い頃、それらの幾つかと出会った。
心を湖に例えるなら、これらの偉大な彫刻達はひとつひとつ石となり、湖の底に沈んでいった。デルフィーの馭者像もそのひとつだ。
石達は湖の底を固めてくれた。それから長い歳月が過ぎたが、その間湖面が波立つこともしばしばあったが湖底は揺るがず、心の平衡が大きく崩れそうになるとバランスを保つ重石となってくれた。
彫刻とはそういうものだ。




delphy





| 風景の行方 | 16:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
響きをとどろかす
aiweiwei

「ごっつい面構えをしているな…」
どこで見た記事なのか記憶していないが、記事そのものより、そこに載ったそのアーティストのポートレートに目がいった。面構えなんていう語は、イケメンとかカワイイむすめさんには使わない。コワモテの中年男、中国の現代美術家アイ・ウェイウェイという人だ。その顔につられて作品を見てみたくなり六本木まででかけた。

会場に入ると、1立方メートル(幅、奥行き、高さ1メートル)の立方体が幾つか並んでいる。いい感じだ。
伝統的な組み木によるもの、テーブルとしたもの、1トンのプーアル茶を立方体にしたもの。ミニマルなんだが、民俗的。
作家は80年代から90年代にかけて十数年ニューヨークにいたそうで、その時期の作品だ。何だかうなづける。
すでに確立された表現形式とはいえ、作品の中に、中国からニューヨークにやって来た作家のストイックな魂が入った逸品だ。

場内を見渡すと、観客のみなさんが作品をカメラでバシャカシャ撮っているのには驚いた。
携帯のカメラで撮っている人が大半だ。三脚やフラッシュを使わなければ撮影がオッケーされている。ほとんどの人がカメラ付き携帯や小型カメラを持ち歩く時代、ブログやツイッター、投稿写真サイトが盛んになったこの時代、こういう処置は、美術館にとっても観客にとっても悪い事はなにもない。美術は”実物と出会う”べきものであり、写真や映像がいくら出回っても、それは宣伝の用しかなさない。美術展は商業映画やイベントに比べればまったくの宣伝不足。見に来た人たちに写真を撮って公開してもらえば、いい宣伝になる。

上の写真は、私もみなさんと同じように携帯のカメラで撮ったものだ。
この作品が一番気に入った。プーアル茶を固めてつくった”家”だ。

この”家”以降は、作品が”建築的”になっていく。
また、ビデオやパフォーマンス、プロジェクト、デザインと表現領域も広がっていく。
実際に建築の設計にもたずさわり、北京オリンピックスタジアムのデザインにも参加した。
彼の思考の根っこにはいつも「現代中国」があり、切り口は変われどそれが軸となっているようだ。

ただ作品は初期の方がいい。ストイックな頃の方がいい。
作品が大型、多様、多彩になるに従い、濃くではなく薄くなっていっている印象を受ける。コンテンポラリーアートでしばしば見受けられる”ディスプレー”のようになってしまっている。〈フォーエバー自転車〉やランドセルをつなげた作品などだ。

しかし、そう感じるのは、彼の作品を見るこの私が、ニューヨークと同じ構築の終末期を迎えた社会・都市の端っこに住んでいるせいなのかも知れない。私の立ち位置ー脱構築を標榜する次元から見れば”ディスプレー”に見える作品も、目下熱烈構築中の中国の現在では、その響きがとどろく芸術であるのかも知れない。
表現形式などは何でもいいのだ。作家が息をしている社会、時代にその作品が響くかが問題なのだ。

ともかく、芸術の秋、文化の秋ということで今月は何だか慌ただしい。
六本木の後は、銀座で知人の個展、その後大手町に行き、国立民族学博物館の公開講演会《人・家畜・感染症》に参加…。少し食傷気味なスケジュールが幾週続いたが、数日前久々に昼前から時間が空いた。今日は早めに帰りゆっくりと、と思っていたところに、『今日と明日、権鎮圭(クォン・ジンギュ)のシンポがあるよ』という知らせが入った。権鎮圭展が近代美術館とムサ美であるのは知っていたが、シンポジウムがあるとは知らなかった。
明日は無理。今日だけでも参加しようと武蔵野美術大学(ムサ美)に向かった。

権鎮圭とは、韓国の高名な彫刻家だ。今回の展覧会のサブタイトルにも「韓国近代彫刻の先覚者」とうたわれている。しかし、おそらく日本では知っている人の方が稀だ。
権鎮圭は終戦後(47年)に日本に留学、ムサ美(現)で学んだ。
二科展などで活躍した後、59年に帰国する。帰国後は不遇だったようだが、逝去後著名になった。

いまでも韓国からの留学生が多く学ぶムサ美であり、創立80周年を記念した事業のひとつとして企画されたものだ。国立近代美術館も2点所蔵している縁だろう、韓国国立現代美術館と3者による共同開催となった。

権が日本に居住した期間は短く、「在日」というにはやや微妙なものがあったが、美術家として日本でのウェイトが大きく濃密であったので、2002年に京都で開催した《アルン展ー在日コリアン美術を起点として》に特別展示として十数点展示した。逆な言い方をすれば、日本に展示できるだけの作品が残っていたので、そういう企画も成り立った。

残っていた作品というのも、公開されていた情報があったわけではなく、まさに探し出したわけで、展示までこぎつけるのにはかなり苦労したが、いまではいい思い出となった。当時、宣伝用に紹介文も書き「権鎮圭が、日本でも正しく評価され紹介されることを、切に願いたい」と結んだが、七年後の今日実現したことは感慨深い。であるから権鎮圭展に行かないわけにはいかない。

シンポ会場に行く前に、展覧会場に先に行った。
(近代彫刻家としての権鎮圭の詳細な説明、評価、賛辞などは発刊された立派なカタログや会場でのキャプションを読んでもらうこととして)会場に数多くならんだテラコッタの頭像を見やりながら、違った感慨をもった。

西洋美術を輸入したあとの日本では、それなりの喜び、そして苦しみがあった。
新奇なものに強い憧憬を感じるが、反面拒絶反応も相当にあった。咀嚼、消化の苦労、葛藤といったものだ。権鎮圭はパリに留学したわけではないが、やはりその喜びと苦しみを持っていただろう。日本…清水多嘉示という師、美術界という壁にバウンドしたものとはいえ、同じ煩悶をもっただろう。いや、バウンドゆえに、より複雑な感情を持っていたかも知れない。会場全体を通して何かそんな呻きのようなものを強く感じた。

濃くていい想い出ばかりの日本をあとにして権鎮圭は帰国する。理由はいろいろあっただろうが、やはり作家としての「立ち位置」の問題が大きかったのではないだろうか。彫刻家として、生まれ育ったところを立ち位置にして、手に入れた表現で、戦争で灰燼に帰した国に何ものかの響きをとどろかせたかったのだろう。
帰国直後は《カレーの市民》あるいは《弓を引くヘラクレス》のようなものを作りたいと思っていたのではないだろうか。結果的にそれは果たせなかった。

同じ会場だが、別空間に師である清水多嘉示の作品やパリ留学時代の写真なども展示してあった。
その写真を見て驚いた。
ブールデル教室の一同が揃った集合写真の中に、清水多嘉示はもちろん写っているのだが、前後して佐藤朝山が写っていた。この時代の美術史を研究している人には何のことは無いことだろうが、何やら”新発見”をしたようでうれしくなってしまった。ジャコメッティも横顔で参加しているのが、これまた面白かった。

来週にでも近代美術館に行ってみよう。


kwon


アイ・ウェイウェイ展
http://www.mori.art.museum/contents/aiweiwei/index.html

権鎮圭展ー武蔵野美術大学
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2009/09-07kwon.html

権鎮圭展ー国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/kwon_jin-kyu/index.html


彫刻家・権鎮圭について
http://www.areum.org/home/02/lecture/kwon_syoukai/kwon_syoukai.html

「去り行く風景」死と生(このサイトの内09.2.27の記事)
佐藤朝山について記載あり
http://yukue.ro21.org/?eid=1176904





| 風景の行方 | 11:01 | comments(0) | trackbacks(1) |
ふたつの記事
asahikiji

asahikiji2

9月19日の朝日新聞夕刊文化欄にインタビュー記事が二つ載った。
ひとりは世界的なファッションデザイナー高田賢三氏、もうひとりは児童買春防止NPO「かものはしプロジェクト」代表の村田早耶香氏だ。
記事は別々のもので、偶然同じ紙面に載ったものだが、ある意味での「対照」として受け取った。

高田氏は1939年生まれで70歳を迎えられる。戦中生まれで終戦時6歳、戦後日本を形作った第2世代に属するだろう。成長する過程は戦後復興期、高度経済成長期。
一方、村田氏は1982年生まれの27歳、「団塊の世代」の子供に属する世代であり「できあがった」あとに生まれた。成長する過程はバブル崩壊、平成不況。

高田氏は姫路から上京、新宿の文化服装学院で学び、銀座の三愛に勤務。銀座でよく遊んだ。当時は若者ファッション文化”みゆき族”が流行していた。その後、パリに渡りブティックを開店、成功を収める。
『70年に現地(パリ)で店を開いた。あの頃は資金がなくても好きなことができた。始めての作品がいきなり雑誌「エル」の表紙になったり、新聞に掲載されたり、最初の10年間、生活ができたのは、ジャーナリストのおかげ。今は広告費のある大組織に入らないとマスコミに取り上げられない。若いデザイナーに同情します。…』記事からの抜粋

できあがってしまった所には、新しいイスを置く余地はない。
そんなところだ。

「建設」の鎚音高いところでは、新しいものは受け入れやすい。新興、新開拓はそれはそれで大変だが、少なくとも可能性のあるものにはチャンスが与えられた。
そして、成長し繁栄し隙間無く「もの」が作られた上には、新しいものは受け入れられる余地がなくなる。人々の素朴な「思い」は煩雑な手続きを経なければ、場を与えられる事はなくなった。

高田氏についての記事を読みながら、これからは人々の活躍がこういうシーンよりも、別の全然違ったシーンで増えていくのではないのだろうか、そんなことを漠然と思った。

下段にある、村田早耶香(さやか)氏の記事を読む。
大学生のときに受けた国際協力の授業。東南アジアでの児童買春の惨状を知る。また、その実態を自分の目で確かめるために現地に行った。
子供が、親の借金のかたに売春宿に売られている。こんな例が無数にあり、救済のためのプロジェクトを立ち上げる。卒業と同時にプノンペンに渡り、現地事務所を開設して、様々な困難と戦いながらも、現在精力的に活動している。

『他人よりいい暮らしをすることが幸せだという価値観を知らず知らずに刷り込まれていたことに、カンボジアへ行って気がつきました』+『豊かとは、他人の痛みを自分の痛みと感じられること。そして世界の出来事を〈自分と関係のあること〉と思える、視野の広さがあることではないでしょうか』--記事より抜粋

高校生の頃は『国際協力の仕事に興味があったが、国家公務員として取り組むのが目標』だったそうだが、
結局は”組織ありき、活動ありき、運動ありき”でなく、自らが現地に行き確かめ、自らが活動をつくりだした。ここに少なからぬ敬意と大きな希望を感じた。

高田氏の世代でも、世界の”負”の問題に対して活動した人は多い。
村田氏の世代でも、世界的なファッションデザイナーを目指す人は多い。
そういったことではない。
この偶然に並んだ記事から、世代のひとつの典型を読み取る事はできるし、そう読み込みたいと思う。前世代は価値観を建設しつつ生きて来た人々であるし、後世代は「できあがってしまった」社会、価値基準に対して疑問を感じ、それを自らの出発点、歩幅でできるところから変えようとしつつある人々だ。

「できあがってしまった」閉塞化した現実に風穴を開けようとする活動は、世代を超えてそこかしこで無数に起きてはいるが、生活の微々細々にいたるまで『市場原理』が入り込んでいる現状はきびしいものだ。
巨大な壁、そんなようなものだが、自らも分子としてその壁の一部を構成しているところがややこしく、手強い。

しかし、個人個人が起こしていく、価値基準・プラットフォームの変革と多様化は壁を突き崩す希望が持てる。人の世界を計る物差し、ハカリは幾つもあるはずだし、多ければ多いほど人の世は豊かになるはずだ。『原理』は硬直しか生まない。やがて必ず破綻する。

既存の価値基準への懐疑、検証。そしてそこから逃げるためではなく、戦うための尺度を持つ事、それが知らず知らずに既存の閉塞型価値観や一時の流行熱に縛り上げられた私達の”生”を、自らに取り戻す一歩となるのではないだろうか。
このことは日本の戦後史の曲がり角といったものにはとどまらない。それこそ世界レベルでの『食い尽くし型』文明からの大きな転換点となっていく貴重なことだ。時代はそこまで来てしまった。

高田氏の記事は上段、村田氏の記事は下段
今の時代、村田氏の記事こそ上段であるべきだ。
この段組みの価値基準を聞いてみたい気がする。





| 風景の行方 | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
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