行方の行方

このサイトは盧 興錫による『風景の行方、作品の行方』http://rofungsok.ro21.orgの続編です。
腰痛記 ”酔い”はモンスターをつくりだす
10.1.31.c



朝、腰の痛みはまだ残っていたが、仕事には出かけて何とかこなして家に帰って来た。
ソファに腰掛けてしばらく休んでいたが、痛みが段々ひどくなってきた。外はもう暗くなり始めている。病院に行くべきかどうかしばらく迷っていた。

座っていてもズキンズキンと痛い。寝るともっと痛くなりそうで、一旦横になったら起き上がれるかどうか不安だった。しばらく立ったまま新聞を読んだり、テレビを見ていたが、このままでは眠れない夜を過ごすはめになりそうなので、やはり病院に行くことにした。

数年前にも腰痛で診察を受けたことがあったが、ヘルニア等の病名がつくものではなかった。単なる『疲労性腰痛』。先生もはっきりしたことは言えないようだ。痛み止めの注射をうってもらい、鎮痛剤をもらい帰宅した。

ふーふー声を出しながら苦労して靴下を脱ぎ、なんとか着替えをすませると早々とベッドに横たわった。横になるのも一苦労だ。薬が効いているうちに寝てしまおうと、目をつぶりしばらくジッとしているが眠れない。寝返りをうちたいが腰を動かさないようにするのは不可能。そうこうするうち過去の腰痛歴のことが次と次と思い出されてきた。

二十数年前、子供達が元気に跳び箱を飛ぶのを見ていて、何となくやってみたくなり混じって跳んだ。馬鹿なことをした。着地と同時に、腰からバキっと音がして激痛が走りしばらく動けなくなった。帰路はやむなくタクシーに乗って帰ることになり、後部座席に寝ころばせてもらった。そのタクシーの運転手さんが腰痛持ちで、運転しながら腰痛についてのウンチクを熱く聞かせてくれた。

それからは、とにかく疲れがたまると腰痛が決まってやって来た。
次に腰痛に襲われたときには、ある人に整体を勧められて行ってみた。上半身をゆっくり回され、なすがままにされていると、突然ぎゅっとひねられ、ボキボキボキボキーッと雷が落ちたような音が背骨からしたのには肝を冷やした。その後も痛みが来るたび、整形外科にも、鍼灸にも行った。電気治療も受けた。二十数年の間に、嵐に巻き込まれるように何度か見舞われ,何度か治療を受けた。

ある時は、仰向けでもうつぶせでも痛くて横になれない、座る姿勢なら何とか痛みが少ないので、半月ほど毛布にくるまりイスで寝ていたこともあった。疲労で腰痛なのに、横になって眠れないため寝不足でなかなか回復せずに困った。あれは幾度目?何年前だったろうか…??
うつらうつらしながらも、当時の出来事が断片的に記憶の中で光を浴び浮かび上がって来た。

本当に忙しい時期だったが、不思議に煩雑で厄介だった実務のことはまったく思い出さない。脈絡無く当時出会った人達や話した時のことが浮かんできては消えた。めぐりめぐって眠りに落ちる直前はなぜか正岡子規のことを考えていた。

といっても、子規の何を知っているというわけではない。知っているのは司馬遼太郎の《坂の上の雲》と、漱石の書いた文の中に出てくる子規の姿だけだ。痛い痛いの連想から子規が浮かんだみたいだ。

《坂の上の雲》文中、病に冒された子規は本当に痛そうで痛そうで読んでいるこちらまで痛くなった。秋山兄弟の活躍、日清、日露、明治の日本をうまく表出した優れた小説で、そういう面で話題にされることも多いようだが、子規の痛さ、痛い子規の文学活動のくだりも、世間的にもう少し高く評価されていいのではないだろうか。

痛み、痛さを作品として、記憶として残しておくというのは重要なことだ。人は何でもすぐに忘れる。激痛さえも痛みがおさまれば忘れる。忘れるから前進もできるのだけれど、痛みを身体や心が発する「声」ととらえるなら、それを心に焼き付けておく何ものかが必要だ。

とにかく…朝が来て目が覚めた。
夜中に寝返りをうったのかどうか分からない。
寝床から這い出しテレビをつけソファーに座った。座れるようにはなったので、いくらかは回復したようだ。何とか仕事にでることはできそうだ。
テレビでは秋葉原連続殺傷事件の初公判について報じていた。

日曜の電気街の交差点、あれから600日も経ったのか…
追い込まれ、自らも追い込んだ犯人には、道行く人々の姿は自分と同じ多くの痛みを持って生きている存在には見えなかったに違いない。人も、看板も、店舗も、ビルも、ガードレールも、信号も、家族も、知人も、過去の出来事も何もかもが解け合い、自分以外は巨大な突撃すべきモンスターと見えていたのだろう。

身体性が必須な実社会は、その濃かった「つながり」がそこかしこで切断されるにいたり、あちらこちらで行き止まりになっている。
身体性なきネット世界の「つながり」は恐ろしいほどのスピードで拡張しているが、虚実はにわかに判断しがたい。
実生活とバーチャルの混淆はますます加速して行く。
ネットとバーチャル、これは乗り物酔いのような”酔い”がありそうだ。
”酔い”は時に、自身の網膜の中にモンスターをつくりだすようだ。

腰はまだ痛い…。


10.1.31b
腰痛の原因のひとつは長時間の運転のようだ。
運転席シートにこんなものを買ってみた。
ボディードクター バックアップ


| 風景の行方 | 18:44 | comments(2) | trackbacks(0)
ゆるい構え
09.12a

「早いな〜、もう今年も終わりだ」
と決まり文句のように、つい先日もつぶやいた。
こうつぶやいたりできるのも、この一年、大きな支障もなく何とか生きて来れたためなので、何ものかに感謝しなければならない。

正月には初詣に行く。特に信仰心があるわけではないが、世間を生き抜いて行くにはあまりに寄る辺が少なく、何ものかに祈念を一年に一度くらいはしたほうが良さそうだといった気分からだ。根は墓参りとさして違わない。草葉の陰や来世といったものを信じているわけではないが、墓にも参り、法事もする。

とかく「信仰心がないのに、初詣は神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は寺でする」と自嘲気味に、この国の人々の宗教との関わりが揶揄される。
そうなのだろうか??
信仰心が薄いのだろうか?

神社の数はおおよそ全国に8万ほどあるそうだ。社殿はなく鳥居と祠(ほこら)だけがあるといった小さいものも含めると20万とも30万ともいわれている。お寺も8万ほどあるそうだ。いずれもすごい数だ。そればかりではない、辻や岐路、道端などにある地蔵尊、道祖神などは、それこそ無数というくらい多いだろう。この数をもってして信仰心が薄いとはとても言えない。

なるほど、明治から終戦まで神社は国家神道として崇敬する事を国民に義務化していて、国家的に保護もされてきたようだ。ただその数が明治になってから急に増えたとは考えにくい。ひとつひとつの由来は様々だろうが、そのほとんどが百年単位で拝まれ、尊重されてきたものだ。あるものは江戸時代から、あるものは鎌倉時代から、またあるものは平安時代から、といったようにである。

逆に、明治といえば西欧近代化であり、合理的な街作りのために小祠や地蔵、道祖神などは邪魔だからどけてしまえと考えるのがオチなのだが、実はそうではなかったようだ。また、数が少なくなったとしたら、やはり終戦後とも思えるが、ときおりビルとビルの隙間の猫の額のような空間に小祠を見つけたり、高層ビルの屋上に新しい鳥居と祠があったりするのを見かけると、たとえ少なくなったとはいえ、数えてみれば予想を越えるもので、それはあなどれない数のような気がする。

そのように数多く残っている理由は熱心な宗教者、信徒がいたからだ、と鼻息荒く述べる人もいるだろう。否定はできない。
しかしそれだけではないだろう。
「信者ではないが尊重する」といった「ゆるい構え」の人々、あるいは「ご利益がある」や「バチが当たる」というほどの人々が星屑のようにたくさんいて、永く生き長らえてきたのだ。

元来、日本は自然崇拝、自然信仰の国だ。山、海、木、岩に神宿るといった心を持つ人々の住む国である。
山の麓にある神社、そのご神体は目の前の山という話は多い。生活するいろんな場に神がいるという人々の心根は、はるばる遠方から来られた神々の真偽を取りざた排斥するより、それらを承認し受け入れようとする方に自然と傾くのではないだろうか。「ゆるい構え」とは、そういった寛容な構えなのだ。

「ゆるい構え」は外来の宗教の独占、緊縛、親切の無理強い主義からすれば「信仰心が薄い」ということになってしまうが、反対に心の下地ともいえる自然信仰心はゆるぎないとも言える。《となりのトトロ》や《もののけ姫》はこの下地にダイレクトに訴えるものがあり、多くの人々に受け入れられた。そして映画達は海外でも広く受け入れられたようなので、日本以外でもこういう心の下地は存在しているという証明となった。希望はなくはない。

数百年というスパンでの歴史の軸や歯車を見直すべきときが近づいてきているようだ。私たちの暮らしや人生は、当然、軸や歯車の作り出した歴史時間の流れの中にある。その中を漂っているようでもあり、流されているようでもある。流れが大きすぎてはっきりとは分からない。そしてこの流れの少し先が滝へと連なっているのか、はたまた大きく旋回しているのか、これまたハッキリ分からないが、いままでとは大きく違うということだけは、確かに予想できる。

気がつけば何かをまっさらから始めるには億劫な年齢となってしまっているが、流れの変化を見極めつつ行動を起こして行かなければならない。
抱負ともつかぬ抱負を思う…年の瀬となった。
良いお年を。。


neko

上の写真/岐路にある馬頭観音
下の写真/猫の地蔵

| 風景の行方 | 18:13 | comments(0) | trackbacks(0)
心の底石
ikebukuro

酸素バーなるものが登場してだいぶ経つような気がする。
効果のほどは経験が無いのでなんとも言えないが、行く人の気持ちが分からないでも無い。

嗅覚は鈍いほうではないので、繁華街を歩くときや、車の往来が激しいところなどでは、
知らず知らずに息を抑えている時が多い。無意識のうちに粉塵やほこり、匂いを気にしている。
それに加えて、このところの新型インフルエンザの流行だ。
マスクこそして歩いてはいないが、心の隅でやはり気になっている。
混雑した電車の中で、なるべく人と向き合わないように注意している。

むろん意識的に息を止めたりしているわけではないが、日々の生活の中で、大きく息をする機会が少なくなっていることは確かだ。「呼吸不足症」などという語はないだろうが、そんなものになっているのかもしれない。森に行って深呼吸したいところだが、そうそう毎日森まででかけることもできない。こうした実は目には見えない、見えにくい事柄が、いまの私達の生を知らず知らずに脅かしているような気がする。

インフルエンザといえば、先月みんぱくの講演会でその話を聞いた。
講演されたのは、北海道大学大学院の教授である喜田 宏先生
演目は《人獣共通感染症をいかに克服するかーインフルエンザを例に》
正直のところ、知識が薄く内容をかいつまんで説明できるほどには理解できなかったが、
一般人が理解すればいい点をしぼってくれた話だったので、ままに聞いた。

頭に残ったのは、「鳥や豚などの家禽の感染症は、その家禽で封じ込める事が最も肝心」
…白い防護服を着た人たちが鶏舎を消毒する映像を思い出した。
「鳥や豚からインフルエンザなどがヒトに感染したからといって、すぐに高い病原性となることはなく、ヒトからヒトへの感染を繰り返すうちに高病原性となる。つまりバージョンアップしていくことが問題」
…インフルエンザウィルスとは本当にしぶとく強いようだ。

話の中で印象に残ったのは、インフルエンザの棲み家、本拠地が北極圏にある湖という話だった。インフルエンザは地球上に相当古くからいるウィルスらしく、それが北の湖の氷水の中にいるそうだ。ウィルスは熱に弱い。氷水は丁度ウィルスを冷凍保存している状態となっている。

その北の湖、そこにいるカモなどの渡り鳥が、冬になり越冬するため南下し、人里近くの湖にやってくる。人里が近い湖には、家禽であるアヒルなどもやってきて、カモの運んで来たウィルスに感染する。そしてアヒルと一緒に生活している鶏に感染、そして一緒に飼われている豚にも感染し、やがてヒトへと感染する。これがルートだそうだ。

以前、温暖化でシベリアの凍土が融け始めているという話を聞いた。
凍っていたいろいろなものが融けだしたら、どうなるのだろう?…


「感染」という語は、もちろん感染症からの語だろうが、文化の「伝播」というのも、語は違えど同じようなものだ。食、衣服、音楽、知識、情報、思想、そして美 これらは伝えられたというより「感染」していったという方が実際のニュアンスは近いと思う。

国立西洋美術館で《古代ローマ帝国の遺産》という展覧会が開かれている。
ローマ帝国成立期の繁栄、暮らしぶりを美術・工芸品やポンペイの遺跡から見せよう、というものだ。ポンペイのある邸宅の庭をバーチャルに再現したCG映像がよくできている。
生活に余裕ができたローマ「市民」は、別荘をもち、その別荘を古代ギリシア風の彫像や装飾で飾り、かわいい庭をしつらえ、古代ギリシアの哲学書を読んだりして時を過ごしたそうだ。

よくギリシア-ローマとひとくくりにした表現がされるが、ローマが古代ギリシアをお手本にしていたという意味と勝手に受け取っている。実際に彫刻等はギリシア時代のものから直接コピーしたものが少なくないようだ。ローマは「ギリシアかぶれ=ギリシア文化感染症」だったわけだ。

では、ギリシアはどこから感染したのか?
通説はエジプトらしいが、東地中海と考えた方がいいのではないだろうか。
エジプト、ヨルダン、イスラエル、レバノン、シリア、小アジア、ギリシア、クレタ島に囲まれた東地中海はいわゆる瀬戸内のようなものだ。ギリシアにポリスが形成されるはるか昔から海上交通は頻繁だった。様々な地域から、いろんなものがもたらされ刺激を受け、吸収し開花したのだろう。このあたりのことは、ゆくゆく突っ込んで調べてみたい。

西洋美術館に来たのは、ほんとうに久しぶりだった。
先日、古代ギリシア文化圏美術史を研究されている羽田康一氏の講義を聴講させてもらえる機会があり、それに触発されたからだ。

羽田先生の講義内容は古代ギリシアのブロンズ彫刻の鋳造法、製像についてだが「目からうろこ」といった話が多かった。そのひとつ、有名なデルフィー(デルポイ)の馭者像についても説明があった。四頭の馬がひく二輪の戦闘馬車(クワドリガ)の馭者の像だ。馬や二輪馬車は残っておらず、馭者像だけが残っている。見ているこちらも背筋がピーンとなってしまう静かな緊張感がたまらない名品だ。

その馭者像、相当な美男子だが、目(眼球)をまぶたに固定するためにマツゲを銅板でつくりはめ込んであるそうだ。目はオニキスでつくってあるという。気がつかないほどうっすら口が開いていて歯がついている。歯は銀の打ち出しだ。口が開いているというのも、今回始めて知った。
製法、材料、技術には、その時代の粋が結集されるものだ。それは史料として重要なはずで、こういう研究が他の文明文化においても一層発展し、横断的-縦断的検証が豊富になり、一般に接しやすくなればどんなにいいことだろう。

ローマは言わずと知れた大帝国だった。遺跡、遺品、文献、物語も多く。今回の展覧会でもそうだが、往時の生のリアリティは受け入れやすく想像しやすい。よって映画等の題材にも多く使われ、豊富なコンテンツゆえになじみもある。人間臭く近しい感がある。

一方、古代ギリシアは紀元前で、ローマに比べれば材料が乏しいということもあり、生のリアリティは実感しずらい。生活感として近しい感じを持つ事はできない。しかし文学、自然哲学、人間哲学、歴史学、彫刻、建築の礎はこの古代ギリシアなのだ。

彫刻だけを言えば、よりなじみあるローマ、その彫刻は残念ながらいただけない。それに引きかえ、人々や社会が実感しにくい古代ギリシア、その彫刻は文句無く素晴らしい。人間臭い”美”ではない、問答無用の”美”だ。否応を超えた”美”だ。

若い頃、それらの幾つかと出会った。
心を湖に例えるなら、これらの偉大な彫刻達はひとつひとつ石となり、湖の底に沈んでいった。デルフィーの馭者像もそのひとつだ。
石達は湖の底を固めてくれた。それから長い歳月が過ぎたが、その間湖面が波立つこともしばしばあったが湖底は揺るがず、心の平衡が大きく崩れそうになるとバランスを保つ重石となってくれた。
彫刻とはそういうものだ。




delphy





| 風景の行方 | 16:17 | comments(0) | trackbacks(0)
響きをとどろかす
aiweiwei

「ごっつい面構えをしているな…」
どこで見た記事なのか記憶していないが、記事そのものより、そこに載ったそのアーティストのポートレートに目がいった。面構えなんていう語は、イケメンとかカワイイむすめさんには使わない。コワモテの中年男、中国の現代美術家アイ・ウェイウェイという人だ。その顔につられて作品を見てみたくなり六本木まででかけた。

会場に入ると、1立方メートル(幅、奥行き、高さ1メートル)の立方体が幾つか並んでいる。いい感じだ。
伝統的な組み木によるもの、テーブルとしたもの、1トンのプーアル茶を立方体にしたもの。ミニマルなんだが、民俗的。
作家は80年代から90年代にかけて十数年ニューヨークにいたそうで、その時期の作品だ。何だかうなづける。
すでに確立された表現形式とはいえ、作品の中に、中国からニューヨークにやって来た作家のストイックな魂が入った逸品だ。

場内を見渡すと、観客のみなさんが作品をカメラでバシャカシャ撮っているのには驚いた。
携帯のカメラで撮っている人が大半だ。三脚やフラッシュを使わなければ撮影がオッケーされている。ほとんどの人がカメラ付き携帯や小型カメラを持ち歩く時代、ブログやツイッター、投稿写真サイトが盛んになったこの時代、こういう処置は、美術館にとっても観客にとっても悪い事はなにもない。美術は”実物と出会う”べきものであり、写真や映像がいくら出回っても、それは宣伝の用しかなさない。美術展は商業映画やイベントに比べればまったくの宣伝不足。見に来た人たちに写真を撮って公開してもらえば、いい宣伝になる。

上の写真は、私もみなさんと同じように携帯のカメラで撮ったものだ。
この作品が一番気に入った。プーアル茶を固めてつくった”家”だ。

この”家”以降は、作品が”建築的”になっていく。
また、ビデオやパフォーマンス、プロジェクト、デザインと表現領域も広がっていく。
実際に建築の設計にもたずさわり、北京オリンピックスタジアムのデザインにも参加した。
彼の思考の根っこにはいつも「現代中国」があり、切り口は変われどそれが軸となっているようだ。

ただ作品は初期の方がいい。ストイックな頃の方がいい。
作品が大型、多様、多彩になるに従い、濃くではなく薄くなっていっている印象を受ける。コンテンポラリーアートでしばしば見受けられる”ディスプレー”のようになってしまっている。〈フォーエバー自転車〉やランドセルをつなげた作品などだ。

しかし、そう感じるのは、彼の作品を見るこの私が、ニューヨークと同じ構築の終末期を迎えた社会・都市の端っこに住んでいるせいなのかも知れない。私の立ち位置ー脱構築を標榜する次元から見れば”ディスプレー”に見える作品も、目下熱烈構築中の中国の現在では、その響きがとどろく芸術であるのかも知れない。
表現形式などは何でもいいのだ。作家が息をしている社会、時代にその作品が響くかが問題なのだ。

ともかく、芸術の秋、文化の秋ということで今月は何だか慌ただしい。
六本木の後は、銀座で知人の個展、その後大手町に行き、国立民族学博物館の公開講演会《人・家畜・感染症》に参加…。少し食傷気味なスケジュールが幾週続いたが、数日前久々に昼前から時間が空いた。今日は早めに帰りゆっくりと、と思っていたところに、『今日と明日、権鎮圭(クォン・ジンギュ)のシンポがあるよ』という知らせが入った。権鎮圭展が近代美術館とムサ美であるのは知っていたが、シンポジウムがあるとは知らなかった。
明日は無理。今日だけでも参加しようと武蔵野美術大学(ムサ美)に向かった。

権鎮圭とは、韓国の高名な彫刻家だ。今回の展覧会のサブタイトルにも「韓国近代彫刻の先覚者」とうたわれている。しかし、おそらく日本では知っている人の方が稀だ。
権鎮圭は終戦後(47年)に日本に留学、ムサ美(現)で学んだ。
二科展などで活躍した後、59年に帰国する。帰国後は不遇だったようだが、逝去後著名になった。

いまでも韓国からの留学生が多く学ぶムサ美であり、創立80周年を記念した事業のひとつとして企画されたものだ。国立近代美術館も2点所蔵している縁だろう、韓国国立現代美術館と3者による共同開催となった。

権が日本に居住した期間は短く、「在日」というにはやや微妙なものがあったが、美術家として日本でのウェイトが大きく濃密であったので、2002年に京都で開催した《アルン展ー在日コリアン美術を起点として》に特別展示として十数点展示した。逆な言い方をすれば、日本に展示できるだけの作品が残っていたので、そういう企画も成り立った。

残っていた作品というのも、公開されていた情報があったわけではなく、まさに探し出したわけで、展示までこぎつけるのにはかなり苦労したが、いまではいい思い出となった。当時、宣伝用に紹介文も書き「権鎮圭が、日本でも正しく評価され紹介されることを、切に願いたい」と結んだが、七年後の今日実現したことは感慨深い。であるから権鎮圭展に行かないわけにはいかない。

シンポ会場に行く前に、展覧会場に先に行った。
(近代彫刻家としての権鎮圭の詳細な説明、評価、賛辞などは発刊された立派なカタログや会場でのキャプションを読んでもらうこととして)会場に数多くならんだテラコッタの頭像を見やりながら、違った感慨をもった。

西洋美術を輸入したあとの日本では、それなりの喜び、そして苦しみがあった。
新奇なものに強い憧憬を感じるが、反面拒絶反応も相当にあった。咀嚼、消化の苦労、葛藤といったものだ。権鎮圭はパリに留学したわけではないが、やはりその喜びと苦しみを持っていただろう。日本…清水多嘉示という師、美術界という壁にバウンドしたものとはいえ、同じ煩悶をもっただろう。いや、バウンドゆえに、より複雑な感情を持っていたかも知れない。会場全体を通して何かそんな呻きのようなものを強く感じた。

濃くていい想い出ばかりの日本をあとにして権鎮圭は帰国する。理由はいろいろあっただろうが、やはり作家としての「立ち位置」の問題が大きかったのではないだろうか。彫刻家として、生まれ育ったところを立ち位置にして、手に入れた表現で、戦争で灰燼に帰した国に何ものかの響きをとどろかせたかったのだろう。
帰国直後は《カレーの市民》あるいは《弓を引くヘラクレス》のようなものを作りたいと思っていたのではないだろうか。結果的にそれは果たせなかった。

同じ会場だが、別空間に師である清水多嘉示の作品やパリ留学時代の写真なども展示してあった。
その写真を見て驚いた。
ブールデル教室の一同が揃った集合写真の中に、清水多嘉示はもちろん写っているのだが、前後して佐藤朝山が写っていた。この時代の美術史を研究している人には何のことは無いことだろうが、何やら”新発見”をしたようでうれしくなってしまった。ジャコメッティも横顔で参加しているのが、これまた面白かった。

来週にでも近代美術館に行ってみよう。


kwon


アイ・ウェイウェイ展
http://www.mori.art.museum/contents/aiweiwei/index.html

権鎮圭展ー武蔵野美術大学
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2009/09-07kwon.html

権鎮圭展ー国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/kwon_jin-kyu/index.html


彫刻家・権鎮圭について
http://www.areum.org/home/02/lecture/kwon_syoukai/kwon_syoukai.html

「去り行く風景」死と生(このサイトの内09.2.27の記事)
佐藤朝山について記載あり
http://yukue.ro21.org/?eid=1176904





| 風景の行方 | 11:01 | comments(0) | trackbacks(1)
ふたつの記事
asahikiji

asahikiji2

9月19日の朝日新聞夕刊文化欄にインタビュー記事が二つ載った。
ひとりは世界的なファッションデザイナー高田賢三氏、もうひとりは児童買春防止NPO「かものはしプロジェクト」代表の村田早耶香氏だ。
記事は別々のもので、偶然同じ紙面に載ったものだが、ある意味での「対照」として受け取った。

高田氏は1939年生まれで70歳を迎えられる。戦中生まれで終戦時6歳、戦後日本を形作った第2世代に属するだろう。成長する過程は戦後復興期、高度経済成長期。
一方、村田氏は1982年生まれの27歳、「団塊の世代」の子供に属する世代であり「できあがった」あとに生まれた。成長する過程はバブル崩壊、平成不況。

高田氏は姫路から上京、新宿の文化服装学院で学び、銀座の三愛に勤務。銀座でよく遊んだ。当時は若者ファッション文化”みゆき族”が流行していた。その後、パリに渡りブティックを開店、成功を収める。
『70年に現地(パリ)で店を開いた。あの頃は資金がなくても好きなことができた。始めての作品がいきなり雑誌「エル」の表紙になったり、新聞に掲載されたり、最初の10年間、生活ができたのは、ジャーナリストのおかげ。今は広告費のある大組織に入らないとマスコミに取り上げられない。若いデザイナーに同情します。…』記事からの抜粋

できあがってしまった所には、新しいイスを置く余地はない。
そんなところだ。

「建設」の鎚音高いところでは、新しいものは受け入れやすい。新興、新開拓はそれはそれで大変だが、少なくとも可能性のあるものにはチャンスが与えられた。
そして、成長し繁栄し隙間無く「もの」が作られた上には、新しいものは受け入れられる余地がなくなる。人々の素朴な「思い」は煩雑な手続きを経なければ、場を与えられる事はなくなった。

高田氏についての記事を読みながら、これからは人々の活躍がこういうシーンよりも、別の全然違ったシーンで増えていくのではないのだろうか、そんなことを漠然と思った。

下段にある、村田早耶香(さやか)氏の記事を読む。
大学生のときに受けた国際協力の授業。東南アジアでの児童買春の惨状を知る。また、その実態を自分の目で確かめるために現地に行った。
子供が、親の借金のかたに売春宿に売られている。こんな例が無数にあり、救済のためのプロジェクトを立ち上げる。卒業と同時にプノンペンに渡り、現地事務所を開設して、様々な困難と戦いながらも、現在精力的に活動している。

『他人よりいい暮らしをすることが幸せだという価値観を知らず知らずに刷り込まれていたことに、カンボジアへ行って気がつきました』+『豊かとは、他人の痛みを自分の痛みと感じられること。そして世界の出来事を〈自分と関係のあること〉と思える、視野の広さがあることではないでしょうか』--記事より抜粋

高校生の頃は『国際協力の仕事に興味があったが、国家公務員として取り組むのが目標』だったそうだが、
結局は”組織ありき、活動ありき、運動ありき”でなく、自らが現地に行き確かめ、自らが活動をつくりだした。ここに少なからぬ敬意と大きな希望を感じた。

高田氏の世代でも、世界の”負”の問題に対して活動した人は多い。
村田氏の世代でも、世界的なファッションデザイナーを目指す人は多い。
そういったことではない。
この偶然に並んだ記事から、世代のひとつの典型を読み取る事はできるし、そう読み込みたいと思う。前世代は価値観を建設しつつ生きて来た人々であるし、後世代は「できあがってしまった」社会、価値基準に対して疑問を感じ、それを自らの出発点、歩幅でできるところから変えようとしつつある人々だ。

「できあがってしまった」閉塞化した現実に風穴を開けようとする活動は、世代を超えてそこかしこで無数に起きてはいるが、生活の微々細々にいたるまで『市場原理』が入り込んでいる現状はきびしいものだ。
巨大な壁、そんなようなものだが、自らも分子としてその壁の一部を構成しているところがややこしく、手強い。

しかし、個人個人が起こしていく、価値基準・プラットフォームの変革と多様化は壁を突き崩す希望が持てる。人の世界を計る物差し、ハカリは幾つもあるはずだし、多ければ多いほど人の世は豊かになるはずだ。『原理』は硬直しか生まない。やがて必ず破綻する。

既存の価値基準への懐疑、検証。そしてそこから逃げるためではなく、戦うための尺度を持つ事、それが知らず知らずに既存の閉塞型価値観や一時の流行熱に縛り上げられた私達の”生”を、自らに取り戻す一歩となるのではないだろうか。
このことは日本の戦後史の曲がり角といったものにはとどまらない。それこそ世界レベルでの『食い尽くし型』文明からの大きな転換点となっていく貴重なことだ。時代はそこまで来てしまった。

高田氏の記事は上段、村田氏の記事は下段
今の時代、村田氏の記事こそ上段であるべきだ。
この段組みの価値基準を聞いてみたい気がする。





| 風景の行方 | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0)
一本の直線 地中海から
columbus

ここしばらく、テレビでは「酒井!酒井!!」の連呼が続いている。衆議院選挙の名前の連呼とだぶり「さかい・のりこをよろしくお願いします」とも聞こえてしまう。ニュースの作り手・送り手が丁度「清純派アイドルのりぴー」のファンにあたる年代なのか、『だまされた!、欺かれた!!』という語気の荒さに当惑だ。

麻薬は大学生等にも広がっているという。
閉塞した現実は虚無感を生む。
麻薬蔓延の温床はこの虚無感ではないだろうか。
実はこの虚無感というのは、人間社会にとって慢性の恐ろしい病弊なのかもしれない。

坂道を元気によいしょ、よいしよと上っている時は病も鎮まっているが、停滞し始めるととたんに忍び寄ってくる。虚無という黒い海に落ちないようにするには、打ち寄せる波に気を取られず、日々の一歩一歩を大切にするしかないようだ。心の在り方という古くてそしていつも新しいこの事がキーでしかない。

しばらくバタバタしていて、大航海時代のイベリア半島から遠ざかっていた。(09年4月記事『気づくと”森”の中に立っていた』)
15世紀末のスペインから17世紀オランダの小さな村に行き着いて、そのままになっていた。岩波新書『コロンブス』を開いて、戻る事にしよう。この本の著者は増田義郎氏で1979年8月20日第1刷というから、丁度30年前に出版されたものだ。出版後にコロンブス研究で進捗があったかも知れぬが、いまは不問とし、やわらかい語り口の魅力あるこの一冊に沿ってみる。

冒頭から「なるほどな〜」と思わされたのは、当時の、15世紀ヨーロッパの「書き言葉」事情だ。当時のヨーロッパは「書き言葉」確立以前であり、文盲率もかなり高かった。このことは教育=学校という近代の重要な構築物を自動的に受容してきた私達には、ピンと来ない話なのだが、「書き言葉」の確立は近代化の重要な礎のひとつだ。

「書き言葉」が成立していないので、当時の公式文章はラテン語で書かれ、そのラテン語は公証人が書くことができた。一般の人々は、家の中の細かい決まり事から、借用書など残しておきたいものがあると、わざわざ公証人の所に行き文章にして証拠として残した。文字が書けるという事はまだ『特権』だった。

話すのは地方の方言、書くのはラテン語というのが長く続いたようなのだが、この15世紀中ほど辺りから、スペイン語(カスティリャ方言)が文語として確立してきて、コロンブスもこれを習得した。イタリアはトスカーナ、ナポリ、ヴェネティア、ジェノヴァと方言があったが、トスカーナ方言が文語の地位を確立し、ジェノヴァ方言はついには書き言葉にはならなかった。コロンブスはイタリアのジェノヴァ出身なのだが、方言は違えど、言語的に近い「トスカーナ方言の文語=イタリア語」を習得すればよかったような気もするが、あえてスペイン語だった。いやスペイン語でなくてはならなかったのだ。

それはジェノヴァ人(商人)が、数世紀前から地中海西側のポルトガル・スペインに数多く進出していて、ジェノヴァ人が活動しやすい地盤ができあがっていたせいだ。海洋国家の雄ジェノヴァは東にはライバル・ヴェネティアがいるし、オスマン・トルコもいて、熾烈な競争、紛争をしていた。しかし西にはまだ未開拓の可能性が充分あった。いきおい十三世紀頃からスペイン、ポルトガルという国へ進出していくことになる。時期はレコンキスタと重なり、王国、ジェノヴァ両者にとって好都合であった。

ジェノヴァ人は、造船や航海技術に長け、交易ばかりでなく、信用制度や為替、手形取引等の銀行業務を西地中海の各地に広め、やがて商業と金融を支配するようになり、社会の支配階級に進出していく。それに加え16世紀になるとジェノヴァ自体の内紛で資本や経営術が、両国に流れ込んだ。当然、資本は投資先を求める。コロンブスはベンチャーだったのだ。

コロンブスは伝承の国「黄金の国ジパング」を目指していた。この私はその伝承の国であろうジャパンにいる。コロンブスと私を結ぶものはその程度しかないと思っていたが、「ジェノヴァ人の活動」ここが歴史の流れの大きな分岐点のようだ。イベリア半島のジェノヴァ人とこの21世紀日本とは、一本の直線によって結ぶ事ができるだろう。地中海が育んだジェノヴァ人の経営、資本、金融、投資は、大航海時代の幕を開き、いまの私達の足下までつながっている。

イベリア半島に移り住んだジェノヴァ人の中に多くのユダヤ人がいたそうだ。以前より移住していたユダヤ人(スファルディ)とも太いつながりがあった。経営、金融に長けた彼らは特権階級にのし上がるが、強い反感反発を買うことにもなる。「郷に入れば郷に従え」で当地でうまく生きるためにはキリスト教(カトリック)へ改宗する者が多かった。この者たちはコンベルソといわれ、マラーノという蔑称でも呼ばれた。

コロンブスは支配階級にいるこのコンベルソ達から多くの資金、支援を受けることになる。コロンブスの航海はコンベルソ達の「活路」でもあったはずだ。改宗したとはいえ反ユダヤ感情はいつどんな形で噴出するか分からない。社会が停滞・閉塞したとき、虚無の黒い雲に覆われ、拒絶反応でヒステリー状態に陥ることがある。そのヒステリーの矛先がいつ「ユダヤ」に向かってくるかも知れず、そのことは骨身に沁みて分かっていたはずだ。烙印とは恐ろしいものだ。コロンブスが出航して17日後にスペインのユダヤ人追放令が下される。このタイミングは実に象徴的だ。

それにしても、ユダヤ人を多く含んでいたジェノヴァ人の社会とは、一体どんなものだったのだろう。ユダヤ排斥、弾圧は中世ヨーロッパでももちろんあった。ジェノヴァといえども例外ではなかっただろう。想像に過ぎないが、「海の民」というのはその辺かなり自由な気風で、社会制度においても鷹揚であったのではないだろうか。交易が主であるなら、金融は不可欠、人種、信仰よりシステムの動力となるものが尊重されたと思える。

また意外に思ったのが、ジェノヴァ人達の「身軽さ」だ。商機や成長を、ジェノヴァあるいはその近海に求める事ができなくなったとはいえ、けっこう簡単に他国に移住しているという印象を受ける。オスマン・トルコの脅威がすごかったのか、「海の民」ならではということなのか、ジェノヴァ特有なのか、この世紀あたりからなのか、移住した彼らは故郷のジェノヴァをどう思っていたのだろうか、よくわからないが気になる。

筆者増田氏は最終章で、フランシスコ会の会員・信者としてのコロンブスの世界観ー黙示録的、神秘主義的な信仰心について言及している。『世界の終末が迫っている。その前にもろもろの異教徒に布教して改宗させ、できるだけ多くの人間を神の王国に迎え入れなければならない』…
キリスト教布教と近代世界システム形成。コインの裏表なのか、より合わされた縄なのか、詳しく見て行けば、まだまだ興味深いことと出会えそうだ。

そういえば、『アマルフィ 女神の報酬』という映画が公開されている。そのアマルフィもジェノヴァとライバルの海洋都市国家だった。アドリア海に面したドブロヴニクも同時代の海洋都市国家だが、その城塞の石には、「世界中の黄金をもってしても自由は売らず」と彫ってあるそうだ。行ってみたいものだ。


columbus1

岩波新書『コロンブス』(地中海とコロンブス)の章、扉絵





| 風景の行方 | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0)
コギトの椅子
cogito

歴史とは面白いものだとよく思う。
目に見えるものではない、触って確認できるものではない。しかし誰もが簡単に口にする。
遺跡、遺物、美術品、土や板や紙に書かれた記録、写真や映像。それらは「歴史的遺物」ではあるが、歴史そのものではない。

歴史的な遺物やそれにまつわるエピソード、伝承、記憶などから想像、構成されるものが歴史なのだ。過ぎ去った日々は確実にあったものだが、いまは幾つかの遺品だけを残して消えてしまった時間。
歴史とは時間、記憶が枯れ、風化し土にかえったものとでも表現すればいいだろうか。そんな「歴史」そのものを何か見える形で表せないないだろうかと、かねがね考えていた。

ある日、椅子の形をした作品の姿が思い浮かんだ。
うまい具合に、仕事場の隅には改装工事をしたときに使った柱材の残りが、幾本か放置してあった。ほこりを払い、雑巾で拭いてやると、充分使えそうだ。少し材料を買い足せばいけるだろう。どんな形の椅子にするかは、閃いたイメージを忠実に再現すればいいので、苦労は無いのだが、さて、それからが、なが〜い作品との対話、格闘の日々だった。

結果的に、実に長い時間がかかった。着手からなんと一年半かかってしまった。
つくっては壊し、またつくるの繰り返しだ。最初に思い浮かんだ時の姿は、実に無責任なイメージだけで、それを「いま」の自分と折り合わせる作業に多くの時間がかかってしまった。


cogito2


椅子を知らない人は、この世にはまず居ない。万人の知る当たり前の「かたち」だ。
このかたちを借りて、かねがね思っていた「歴史」を表してみようと思う。椅子の柱、桁、背もたれ、座面のすべてに無数のひとの姿を彫り込んだ。森の中に生まれ、木を切り出し、やがて集落をつくり、他集落と奪い合い、砦をつくり、争い、巨大な権力を築き、他を殲滅、支配する…こういった姿を彫り込んだ。

風化して土にかえった時間や記憶の上に、新しい生活が生まれ営まれているのだから、歴史というのは足下にあるといえばあるのだが、普段は不可視で、特別に意識もされない。その存在が「当たり前」と認識されているというところが、椅子のかたちと似ている。

現在と歴史がつながっていることは、日々の繰り返しの中に突然起こる事件、事故、矛盾、衝突、紛争という現実の「裂け目」を通して知る事になる。例えば、ある事件を通して、ある個人の個人史を、その人の育った地域史を、その時代史を知りたくなくても知ったりする。

椅子には「裂け目」を作った。そして日常の風景を写真で挿入した。
現実・風景の裂け目から歴史をかいま見るのではなく、歴史(椅子のかたちをしているが)から現実・風景が見えるという事になった。

cogito3

作品が大方出来上がりつつある頃、これをどういうところにおいて見るといいのかを、しばらく考えていた。どう考えても現実・風景の中に置いて見るのが一番のようだ。しかしそんな場所はない。(後日、画像の中だが、渋谷の街角に置いてみた。これ、かなり気に入っているが現実には不可能だ)

展示場所を思いめぐらしている頃、展覧会出品の話がやってきた。現実・風景の中に置くべきものをホワイトキューブで見せるにはどうしたものか。いろいろ考えた末、椅子の中の一番大きな裂け目(というより”穴”)に、風景の中にある椅子の姿を映像にして映し出す事にして、出品することにした。椅子の一部に風景が映像で映し出され、その風景の中に椅子があるということになった。

作品のタイトルは『コギトの椅子』とした。コギトはコギト・エルゴ・スムのそれだ。
私達の眼前に広がる、この”来るところまできた”近代の風景は、やはりデカルトが源流であろうと思っている。コギトから始まった近代風景。アジアの果てで最も鋭くせり上がったその風景の一角に育ったのだから、何かを思わずにはいられない。

ロダンはデカルトの影響を多く受けたそうだ。代表作『考える人』は世界的に有名で、多くの国にある。
あの像こそ、まさにコギト・エルゴ・スムの像だ。彫刻作品としては、もちろん傑作であり何もいうことはないが、人は何の上に座って考えてきたのか、いや何の上で生きてこられてきたのか、という視点はなく、そろそろ、その事をきちんと考えるべき時期に来ていると思う。

『コギトの椅子』が展示してある展覧会は、韓国のソウル南郊の果川市にある国立現代美術館で開催されている『アリラン・コッシ(ありらんの花の種)』というタイトルの展覧会だ。
遠いところばかりで展示しますねーと、よくお叱りを受ける。そういえば、東京では2000年以来展示していない。残念に思う。








| 続/作品の行方 | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0)
一バレルの石油に等しき我が人生
eki

このところかなり忙しかった。
幾日も徹夜同然などという生活はしたくてもできる年齢ではないので、なるべくタスクが集中しないように努めてはいるが、どうにもならない時期もあるようだ。毎晩深夜までの仕事が続いた。

こうなった時は得策などはない。とにかく、毎日毎日へばりつくように、期限の迫ったタスクからひとつひとつ片付けていくしか解決の道は無い。丁度、ロッククライマーが崖というか巨岩にしがみつき、一手、一足を、無駄無く、効率よく、ひとつひとつ力を込めて登って行くように、あゝいう気分で仕事を片付けていかないと、タスクのすべてを無事に成し遂げられない。少々の休息はとっても、他の考えに意識を奪われ、気持ちが飛んでしまうとだめだ。

へばりつき、しがみつきもピークは数日で過ぎた。
ほっと一息、ビタミン剤を飲み、疲れた目に目薬を注しながら…
人の生というのは所詮”へばりつき、しがみつき”なのか。。。などとしびれた脳で考える。
フーテンの寅さんの人気が出たのは、何ものにもへばりつかず、しがみつかなかったためだ。寅さんのようには生きたくても生きられない世の中となったからだろう。寅さんも、イージーライダーも、ヒッピームーブメントも何ものかへのもがき、抵抗、反作用であったことは確かだ。流行などではない。

あまり話題にもされないし、どこかの正式な調査報告もないが、都内の鉄道人身事故はかなりの数に違いない。
車内放送の『ただいま人身事故のため運転を見合わせています』に、他の乗客達は何を思っているのだろうか?ラッシュ時に予定外のところに停車した電車、流される放送、あの異様な濁った沈黙の空気は何とも形容しがたい。新聞のほんの小さな記事にはなってもニュースにはならない。何事も無かったように列車の運行は再開されるが、あの空気はなくなることはなく、乗客達が分け合い引っずっていき拡散する。

連休明けの出勤時間。一番ブルーな時だ。何だか事故が多いような気がする。
不慮、不覚の事故?自殺? 
会社から”へばりつき”を拒否されたのか、
ホームから見上げた青空に”しがみつき”の人生が突然むなしくなったのか、
あるいは休暇が無かった過労のため足下がふらついたのか、
知る由もないのだが、想像しがたいものでもない。

”へばりつき、しがみつき”は生きものとしては当たり前のことだ。
しかし近代に入ってからのそれは、それ以前とは比較にならない次元を迎えた。
すり替えられたのだ。
”へばりつき、しがみつき”は「仕組み」の義務となった。
生きよう、生き抜こうという本来的な生きる意思は、共同体を支えるための犠牲精神となり、一時の美しさを持つが、波がひき高揚が去ると義務だけが残った。そしてその義務がまるで宿命であったかのようにすりかえられた。生き、働く事は国家の、機構の、市場のための義務と定義された。

あこがれの一戸建てマイホームは、産業革命の頃のイギリスで始まった「制度?」だという。一家族一戸制は世帯数を把握するのに良く、税がかけやすい。管理しやすいということだ。
人々の”生”を数量として把握、活用、制限、はたまた品質管理までしようということになった。一兵士が一弾丸に例えられるなら、一個人は一バレルの石油と考えられていても何の不思議は無い。
一バレルの石油に等しき我が人生。。。
そこに生きる意味を見いだそうとしても、ムズカシイ。

最近、漱石が多く読まれているという話を聞いた。
多くの人が「気づき」「探している」のだ。
漱石はロンドン留学中から近代文明、近代性の限界を感じていて、相当手厳しかった。
開化、開化の奔流のような時代のベクトルに疑念を抱いていた人だ。
小説とは別の意味で文明論考や講演集などに教えられる事が多かった。

文明論、文明批評というのは、聞き手に敬遠されることが多い。
へばりついている、しがみついている現実とはかけ離れているから実感がわかない。
それが分かったところで自分ではどうして良いのやら分からない。
文豪、国民作家として尊敬される漱石だが、この面では当時としては”進みすぎていた”ほうではないのだろうか。懸命に西欧の近代を「坂の上の雲」として追いかけていた時代だ。
漱石の文明論を聞く人は頭がねじれる感じがしていたであろう。

(そういえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』を書くとき、漱石をかすめていったが、漱石の文明論をどのように思っていたのだろう?確かそのあたりに言及したくだりはなかったようだったが…)

“余裕派”とは、当時の自然主義文学者や浪漫派文学者が、漱石を揶揄して名付けたあだ名だったと記憶している。漱石は○○主義でもなく、○○派でもなく、漱石は漱石だった。そこのところが○○主義、○○派の人たちは気に食わなかったようだが、バカバカしい名だ。名付け由来のうんちくも知らぬではないが当を得ているとは思えない。明治の「近代人」として漱石ほど余裕が無かった人はいないはずだ。「近代」に合った新たな書き言葉を創出しつつ、大車輪で小説に立ち向かっていた。

汲々とへばりつく姿を吐き出すような言葉で作品にする。何ものかに傾倒耽溺する姿、心情を書き連ねるのも文学だ。しかし自分たちが乗る事になった汽車の、路面電車の、あるいは自動車のある社会が、人間に何をもたらすのか。新しい社会となって旧社会の道徳律が壊れた後、人は何を持って生きるべきなのか。

西欧文明は単に道具として進んでいるものが入ってきただけではない。文明を動かしている宗教、哲学、思想もドッカ〜ンと入ってくる。人々の”生”はどうなるのか。ドッカ〜ンは西を掠め、東を侵し、ついに眠れるアジアを収め、一神教世界観で世界を浸した。
漱石は「浸されつつある時代」そのものに対峙し、苦悩する。そして「近代作家」として後世に多くの道しるべを残した。

「このへばりついている”私”とは一体何なんでしょうか? へばりついていることにそんなに意味があるんでしょうか? そもそも何でこんな境遇になったのでしょうか?」
答えを探して、その道しるべをたずねる人が多くなったということではないのか。

漱石もドストエフスキーも、若い頃に無我夢中で読みふけった”山”だ。
また、そろそろ分け入り登ってみたくもあるのだが、今は遠くから望むその山の大きな姿になんだか気後れしている。



passenger
作品『降りることはかなわず』陶、焼き閉め




| 風景の行方 | 18:07 | comments(0) | trackbacks(0)
かの地も、この地も武蔵国のうち
kamosu

東京国立博物館での阿修羅展がすごい人気らしい。
『興福寺ではケースの中に入れられているが、ここではガラス越しでなく見られるので非常にいい』
こんなコメントをどこかで読んだ。
…??
ケースの中に入っていたかな〜??
確か昔は入っていなかったような気もするが、三十年も前の記憶だからおぼつかない。
真夏の奈良を汗をふきふき歩き回り、ひんやりした寺の堂内で、深いため息をつきながら見た記憶だけが鮮やかに思い出される。

あの阿修羅像は乾漆でできているし、細い腕が長くて数も多いので、運ぶのは大変だ。
運搬料もかなり高額だっただろうから、十万人単位の観客動員に関係者の方々は安堵していることだろう。
いや、おつりのほうが大きくて笑いが止まらないというほうが当たっているかも知れない。
三十年ぶりの古い友に会いに行くように、上野に行く気もなくはないが、
やはり奈良の風景の中で再会したいので、行かない事にする。
次の「奈良のイケメン」との再会が、たとえガラス越しであっても仕方ない。

人混みはかなり苦手なので、連休中に出かける事は滅多に無い。
阿修羅展に行かないもうひとつの理由だ。
この連休中もほとんど家に居て作品、本、テレビと向き合っていた。
ただ運動がてら近所はちょくちょく散歩した。
中氷川神社に行ってみた。

一年ほど前、飯能にある郷土資料館で、模型でできた遺跡地図を見た。
その模型地図の範囲は、飯能ばかりでなくその周辺まで含まれていて、我が家の周囲も入っていた。
「縄文」のボタンを押すと、縄文遺跡の場所の豆電球がつくという、定番のやつだ。
土地勘の働く、自宅の近所に注目しながらボタンを押してみた。

古代からの神社として、「中氷川神社」の表示がでた。
農道を広くしたような、やたら車がスピードを上げて行き交う県道の脇に、石の鳥居が立っている。あの神社は、いにしえからのものだったんだ。

神社の前に立つ。
鳥居が県道に面してやや窮屈に立っているが、そちらが本参道とのことだった。
おそらく県道がつくられるとき、参道を容赦なく横切ったのだろう、本来の参道はもっと長かったに違いない。

境内に入り、由来書を読む。境内には他に誰もいない。

『創建ー崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く……』
崇神天皇とは、実在したのではないかと言われている第10代の天皇。
在位が紀元前97年から紀元前27年という。その御代に造られた神社というのだから相当古い。

『御祭神ー素戔嗚命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちむちのみこと)』
なるほどスサノオを祭っているんだ…

『社殿ー後鳥羽上皇の御字に…
    山口領主高治が…
    昭和六年から…
    御本殿は出雲大社造(心の御柱二十五尺)、古御本殿は元禄二年造立の春日造鱗葺社殿』
エ、エ!!本殿が大社造(たいしゃづくり)??

別に神社巡りが趣味ではないので、そんなに多くの神社に行った訳ではないが、
出雲地域以外で大社造の神社を見た事が無い。
出雲からとんでもなく離れたこの地域に、なぜ大社造の神社があるのだろう??
とにかく本殿を見てみることにして、階段をかけ上った。

上には拝殿があり、その横を回り込み、本殿の斜め前に立つ。たしかに大社造だ。
屋根は、檜皮ではなく銅板葺きだが、千木(ちぎ)も鰹木(かつおぎ)もある。
高床の本殿に入るために急な階段がある。本殿の平面は正方形で、建物の周りをぐるりと回廊がついている。本殿は山を背負って立ち、前には拝殿がある。出雲のおおやしろと同じだ。
「なぜここに…」
しばし不思議の感にうたれていた。

拝殿前に戻り、上ってきた階段から眼前の風景を見る。
小高いので見晴らしはいい。この感じ、このロケートをどこかで記憶した覚えがある。
拝殿を背に、右に向かうと「和魂宮」という建物があり、通り過ぎて坂道を降りていくと、拝殿前の階段下にでる。「かもす」に似ている。

昨年夏、出雲大社の特別拝観を見たあと、古代出雲歴史博物館や荒神谷遺跡をめぐりつつ、レンタカーで松江へと向かった。++2008年8月稿「夜明け前の境内を急いだー出雲のおおやしろ」
この短い旅は、まず出雲大社を再び訪れる事、そして松江の神魂(かもす)神社に行くことにしていた。
神魂神社の本殿は現存する最古の大社造だと聞いていたからだ。出雲のおおやしろは1744年の再建築。一方、神魂神社の本殿は1583年の再建築で160年ほど古く、その分いにしえの姿に近い。

車にはナビがついているのだが、使い方が良く分からない。来る前にネットで調べたおおまかな地図を頼りに車を走らせ、幾度か近くを行ったり来たりしながら探し当てた。宍道湖からそう遠くない、小高い丘にあった。

ゆるやかな坂道の参道をのぼっていき、急勾配の石の階段の上に拝殿、そして本殿があった。
たしかに大社の本殿に比べると、大きさは小振り…高さが半分ながら、かたちは骨太な太古の趣を感じさせる。本殿も感動的ではあったが、何より神社全体の醸し出す雰囲気が、いにしえよりの聖域そのものであることを物語っている。詳しく調べてはいないが、おそらく創建当初から大規模な土木工事はなされずに今日に至っているに違いない。

その「かもす」に、この「中氷川神社」が似ている。
この所沢という地は、明治時代に陸軍が日本初の飛行場をつくったというくらいの話しか無く、主に戦後に宅地として開拓開発されたところだ。歴史時間の煮詰まりを感じさせるようなところはほとんどない。釈然としない気持ちで、再び由来書の前に立って、それを眺めていた。

そこに運良く、宮司さんと思われる方が通りかかられた。
人気の無い境内で、中年男が長い時間何をしているのかといぶかられたのかも知れない。
その方に、疑問を尋ねてみた。

以下は、そのお話----
本殿は、昭和2年に、その時の宮司さんが大奔走し、国の役所などから何とか許可を得て、大社造の本殿を建てる許可を得て建てることができました。終戦までは自由に本殿などは建替える事ができずに国の許しが必要だったのです。実は江戸時代も幕府の許可が必要で、それはかなり厳しいものだったようです。

大社造の本殿というのはかなり珍しく、その時の宮司さんが出雲などに出向いて研究されたそうです。きっと神魂神社にも行かれたことでしょう。この一帯は古代に「出雲族」が多く住んだところで、その近くには「渡来系」の人々の集落も多かったらしいです。出雲族と渡来系は共に鉄器生産で連携があったようで近くに住んだか、あるいは国の命でそのように住まわされたのでしょう。

ここには、昭和四年に近くの山口貯水池をつくる際に湖底に埋もれた旧勝楽寺村にあった七社神社を合祀しています。旧勝楽寺村とは朝鮮半島より日本に渡来した百済人、高麗人の居住した地と伝えられいる村です。
----おおよそ、こんなお話だった。

想像だが、創建時この神社の本殿は大社造だったであろう。昭和2年の建替え時の宮司さんは、その歴史をひも解かれて、復興すべく奔走されたのであろう。戦前はどの役所が、神社の立て替えなどを管轄していたのかは、これから調べるとして、長く国によって宗教はコントロールされてきたことを物語るエピソードだ。大和朝廷以来、出雲族に気兼ねをし出雲族を恐れてきたことだけは確かなようだ。それが形式上とはいえ20世紀まで続いていたとは、気が遠くなる。

話を聞きながら、古代の風景がパノラマのように広がるのを感じた。
同時に、自身の”近視眼脳みそ”を恥じた。
歴史を今の地理感覚で計っては駄目と、常々感じているのに、ついつい「いま」を基準に物事を考えてしまう。

ここから北西へ向かえば、日高というところで、高麗神社がある。
一帯は高麗郷といい、むかし渡来系の人々の里であった。
高麗神社は、この里の長でもあった高句麗から渡来した高麗王若光を祭っている。
高麗の先は霊地秩父だ。

反対に、南東に下ると府中だ。武蔵国の国府が置かれた地だ。
周辺はいまだに武蔵を冠した地名が多く残る地域だ。
府中は、多摩川に沿うようにあり、多摩川は渡来系と縁の深い川であることは良く知られている。
府中には大国魂神社があり、大国魂大神が祭られている。
大国魂は出雲大社の御祭神・大国主の別名であり、大国主はスサノオの子(もしくは子孫)である。

20世紀の渡来系であるぼんやり頭の筆者は、生まれは山梨だが、生後何ヶ月かで東京に、以来多摩川の丸子橋付近で育った。原風景はと自問してみても多摩川の風景しか浮かばない。長じて家族を持つ頃にバブルがやってきて、その波に押し流されるように、住み慣れた城南を離れ、新興住宅地所沢にやってきた。

縁もゆかりも無いところにやって来たと思っていたが、近視眼鏡を外してみれば、かの地も、この地も武蔵国のうち、まんざら縁がなくもなかったということのようだ。

kamosu4

※写真は二枚とも島根県松江市にある神魂神社





| 風景の行方 | 13:19 | comments(0) | trackbacks(0)
気づくと”森”の中に立っていた
morinonaka


今年もソメイヨシノは見事に咲いていた。
幾度も花の下を通り、遠目にも見ていたが、足を止めることもなかった。
花見に行きたいね、と話題にも上ったが、結局行かずに終わった。
花咲く季節だったが、気分は深い森の中に入り込んでいた。

深い森とは、『スペインを追われたユダヤ人』という本だ。
歴史書、思想書でもあり、そしてすぐれた紀行文学だ。
夜明け前の「近代」、大航海時代のイベリア半島を知ろうと読み始めたのだが、
著者に導かれるまま“旅”に同行し、気づくと”森”の中に立っていた。

見知った街を歩くとき、通る道、使う道は結局いつも似たり寄ったりだ。
そんな道のイメージが、その街の印象だったりする。
そういう印象というのは、固定化され、自分の中での常識となる。
自分が得た知識や情報というのも、頭の中で似たような処理をされるようだ。
イメージが与えられ、常識として定着する。

通いなれた道順、何かのアクシデントでもないかぎり、いつものコースから外れる事はない。そういう意味では、この本はアクシデントだ。
誰かによって造られた表通りではなく、歴史の裏通り、いや裏本通とも呼べる道があることを教えてくれている。

1492年、スペイン国王夫妻が、イスラム支配の下で数百年間平和に住んでいた数十万ユダヤ人の追放を決定する。このあとの、追われての移住、追い込まれての改宗→隠れユダヤ、仕込まれた反ユダヤ人暴動、異端審問所という弾圧。それらの痕跡をスペイン各地を訪ねながら、数々のエピソードを織り交ぜて著したものだ。名著だ。書評、紹介も多いので、概略は避けよう。

著者・小岸 昭氏の案内で、鬱蒼とした裏本通をよどみなく進みながらも、ところどころ木漏れ日の下でなじみの人物と出会ったり、見かけたりする。「なるほど、ここでね」とか、「そういう風につながるのか」とか、「おや、こんなところに」という人たちなどだ。

登場は全然意外ではないが、知ってみると驚いたのが、コロンブス(1451年生まれ)だ。
母方の実家がユダヤ系だったらしい。スペインばかりかヨーロッパ全域に広がっていくユダヤ迫害の暗雲に強い不安を抱いていたに違いなく、それが航海へのバネとなったのではないか。
新大陸への出航がユダヤ人追放令発効17日前というのがすごい。そしてその航海のパトロンが、その追放令を出した張本人イサベル女王というのだから、何ともスリリングな話だ。
いままでショーケース入りのコロンブスにはさして関心は無かったが、「後書きにかえて」にもあるように、『コロンブス』岩波新書ーをきちんと読んでみなければならない。

エル・グレコ(1541年クレタ島生まれ)は、1577年36歳のときにスペイン宮廷画家となり、たくさんの宗教画、肖像画描いたが、その中に『大審問官ゲバラの像』があった。大審問官とは異端審問の最高権威者で、多くの異教徒を火刑に処した。一見”忠実な”肖像なのだが、真の芸術家は外見の底に横たわる見えざる姿を見すかしてしまう”看破力”を持つものだ。後輩にあたるベラスケス(1599年生まれ)、ゴヤ(1746年生まれ)なども、この力を持ちすぎるほど持っていた。

この絵のできばえを大審問官本人やその取り巻きは、どう感じたのだろうか。「素晴らしい、そっくりだ!」「威厳を感じます」という賛辞だったのだろうか、それとも唇では賛辞を語りつつ、腹では「似ている事は似ているが、見ようによっては悪魔のようにも…」などとつぶやいていたのだろうか。

大審問官ゲバラの像に込められた”看破力”は二百数十年の時を跳躍し、ロシアで火の手をあげた。
ドストエフスキー(1821年モスクワ生まれ)は、あの『カラマーゾフの兄弟』-「大審問官」の稿を書くにあたり、この絵からインスピレーションを受けていたに違いないという。鋭い指摘だ。
「異端審問」という国民均一化=排除=殺戮マシーンに戦慄しつつ、無言で審問官を画とした画家。ロシアの近代化に直面し、あえて火刑荒れ狂う史実の都市を小説とし、思想を問うた文学者は、あの絵を凝視したはずだ。

ゴヤは、エル・グレコから2世紀遅く生まれているが、異端審問はまだ続いていた。ゴヤは『カルロス四世の家族肖像画』で分かるように、やはり同じ”力”を持っていた。それは異端審問も扱った風刺銅版画集『ロス・カプリチョス』や『黒い絵』につながるものだ。最近封切られた映画『宮廷画家ゴヤは見た』は、その裏打ちから来ている。

スペインの異端審問は1808年まで続けられたというから、何と300年に及び続けられたことになるわけだ。エル・グレコもゴヤも異端容疑をかけられたそうだ。”力”を持つものは警戒され“排除対象”にされたのだ。「異端に同情するものは異端」「魔女に同情する奴は魔女」「赤をかばうやつは赤」…気に食わない奴を消すにはもってこいのシステムだった。ピカソもナチスから「異端」と見なされていた。
異端審問廃止決定をしたのがナポレオン支配というのだから、「近代」という激流の大きな渦がここに色濃くあらわれている。

追放、弾圧はまるで絵に描いたように、イベリア半島の先端リスボンからユダヤ人達を大西洋に追いつめた。その海に飛び込み北に向かった人々は、オランダ(ネーデルランド)・アムステルダムにたどり着いた。17世紀初頭には8000人ほどの共同体が出来るほどだったらしい。その村というか街に画家レンブラント(1606年生まれ)は、わざわざ引っ越してきて、そこに住む人々の習俗を描き「旧約の世界に通じる異形のオブジェとして掘り起こす」ことに興じていたようなのだ。

この本にはそうだとは書かれていないが、松岡正剛氏の『千夜千冊』を見てみると、レンブラントもスペイン系ユダヤの直系(マラーノ)であったとある。もしかするとレンブラントの一族は、15世紀末の追放令後、比較的早い時期に海を渡った人々だったのかも知れない。早くにスペイン・ポルトガルから離れたので、レンブラントの世代には、かなりネーデルランド化していて、反対にユダヤの習俗が懐かしく、そして新鮮に見えたのではないだろうか。記憶は50年もあれば充分半減するものだ。版画で多く残しているところをみると、一般に普及させたいという意図も感じる。

いずれにせよ、興の趣くままユダヤの習俗を活写できる姿に、当時のネーデルランドの自由な雰囲気が見てとれる。レンブラントは17世紀の人だが、工房経営にしても「ビジネス」的感覚を感じさせるし、「自分大好き」なのか自画像をやけにたくさん描いたり、愛人から訴えられたりと、何とも「近代」の匂いが濃い人だ。レンブラントの近所にスピノザ(1632年生まれ)も住んでいた。レンブラントはスピノザより三十歳ほど年上で、父親と同世代だ。きっと知り合いであったろう。そして、そのアムステルダムから遠くないデルフトという街にはフェルメールがいたのだが、スピノザと同い年だというのだから何とも興味深い。

その頃のネーデルランドに逃げてきたのはスペイン系ユダヤ人ばかりではなかったようだ。当時の国家や教会から目の敵にされていたデカルト(1596年生まれ)も避難していた。デカルトはエンデハーストという小さな村で『哲学原理』(1644年)を書き上げ、そのすぐ近くの村レインスプルツでスピノザが『デカルトの哲学原理』(1663年)を書いたという。

深い森の中の道を歩いてきたら、17世紀オランダの二つの小さな村に着いた。
二つの村がオランダのどの辺りなのか、少し調べてみたが分からなかった。
どこだか分からないが、この村辺りから…
コギト・エルゴ・スム cogito, ergo sum まるで呪文のような、この言葉あたりから…
私達の風景を眺めてみたらどんなだろうか…








| 遙か遠くの光景 | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0)
LINKS
CALENDAR
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28      
<< February 2010 >>
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
CATEGORIES
Wikipedia Affiliate Button
RECENT TRACKBACK
PROFILE